- 2019-8-14
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8月13日はベルリンの壁が築かれた日です。書きたいことは沢山あるのですが、ちょっとした気づきを書いておきます。下に続く3枚のブランデンブルグ門を西側から撮った写真をご覧ください。
私にとっての東西ドイツ分断史探求の原点のような一枚です。それまで写真では見たことはありましたが、現場に立って見て現物を目の前にすると、その意味するところがあまりにも大きく感じられ、言葉を失ってしまった・・・そんなところです。
この頃、壁の西側には落書きなどは無く、柵の向こうに立てられていた “ACHTUNG! Sie verlassen jetzt West-Berlin”(注意!あなたは今、西ベルリンを離れようとしています)という警告看板が東西分断をいやが上にも強調しているようです。
1984年の写真では壁に落書きがされています。え?そんなことしていいのか?確かに壁自体は東独の「国家資産」だし、それを毀損・損壊させる行為(壁を削って売るなど)は恐らく東独の法律に罰則規定はあると思われますが、あちらの国境警備兵が常時、壁の西側でそれを監視しているわけでもなく、落書きは十分可能だったと思われます。実際、壁が生活空間のすぐ前に存在している場所などでは、既に落書きが一杯でした。しかし、観光客も多いブランデンブルグ門の前はまだこんな感じでした。
1987年、壁の崩壊2年前になると、もうそこは落書き天国(笑)!書きたい放題、やりたい放題に見えます。東独サイドもこれを消す努力を放棄したようにも見えます。よく見ると、壁の材質も Betonplatte(コンクリート板)に変わっているようです。更に警告看板の書き方も少し変わっています。以前のは West-Berlin とあったものが、ここでは WEST BERLINになっています。字体にも変化が見られます。
2枚の地図の左側は、西のホテルで貰ったベルリンのガイドマップの一部です。ここには所謂「西ベルリン」が “BERLIN(WEST)”、所謂「東ベルリン」が “OSTBERLIN”と表記されています。
日本語で東・西という漢字を使ってしまうと、うまくニュアンスを伝えられないのですが、“BERLIN(WEST)”とは、「ここはベルリンであり、たまたま東西に分断されてしまったので『西』ということになっている」・・・一方で「壁の向こう側は『ヒガシベルリン』といって、OSTBERLINと一続きの単語で表すべき、BERLIN(ベルリン)とは違う町なのだ!」と主張しているかのようです。
同じことは、東側の視点からも起こっていて・・・右の地図は東で購入したベルリンの地図ですが、そこには「ベルリンの西半分を WESTBERLIN(ニシベルリン)と一続きの単語で表すべき、BERLIN(ベルリン)とは違う町なのだ!」と主張しているかのようです。西側の警告看板では一続きの単語ではなく、明確に West-Berlinと、Berlinの West地区であると主張しているわけで、当時はこんな細かいところに東西の対立が表れていたのです。
1987年の看板表記では WEST BERLINは2単語となっており、あまりそういうところに拘っている節が感じられません。この看板はどこの役所の責任で立てらたものかは分かりませんが、こんなところにも意識の変化というのが表れたものでしょうか?
三十年前のドイツ(13):ハンガリー・オーストリア国境に起こった変化に続きます。