三十年前のドイツ(11):東西ドイツ国境の画像 Berliner Mauer

1981年3月、初めてベルリンに行った時の写真をアップします。

ベルリンの壁が構築されたのは1961年8月、私が小学校2年生の時です。ディズニー映画を見に行った映画館で、映画に先立って放映されたモノクロのニュース映画で、緊迫感のある音楽と共に人々が逃げまどい、窓から飛び降り、銃を持った兵士の横で、職人たちがせっせと煉瓦を積んでいる・・・そんなシュールで意味不明なシーンを今も思い起こすことが出来ます。下の動画のいくつかのシーンはそのニュース映画に含まれていました。

モノクロのニュース映画

Bundesarchiv Bild B 145 Bild-P061246.jpg
Von Bundesarchiv, Bild 145-P061246 / o.Ang. / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link

【1981年3月 西ベルリン BERLIN(WEST) oder West-Berlin】

そんなベルリンを見に行こうと、赴任して2ヶ月ほど経った3月の週末、同僚と鉄道でベルリンに向かいました。朝8時ちょうど初の D337列車(D-Zug:急行相当)でまずは西ベルリンに行き、その日は西ベルリンに泊まり、翌日チェックポイントチャーリーから東ベルリンを日帰り観光して、再び西ベルリンの動物園駅(Bahnhof Zoo)から帰りの列車に乗るという行程です。



当時の西ベルリンの動物園駅(Zooligischer Garten Bahnhof)はどういう経緯か西ベルリンにありながら、東独サイドが運営権を持っていました。また、『クリスチーネ・F ~麻薬と売春の日々~』(Christiane F. – Wir Kinder vom Bahnhof Zoo)という、Zoo駅の裏手に集まるドラッグ依存の少年少女の中で、12歳の少女がドラッグに溺れていくという実録映画が公開されようとしており、その予告編が世の中に大変な衝撃を与えていました。

1981年3月、初めてベルリンに行った時に撮ったもの

かつてニュース映画で見たベルナウアー通りは、すっかり様相が変わり、建物は撤去され壁に置き換わっていた

ポツダム広場

6月17日通り
ブランデンブルグ門からシャルロッテンブルクまで繋がっているメイン通りは、1953年以前はシャルロッテンブルガー・ショセー (Charlottenburger Chaussee) と呼ばれていたが、1953年6月の東側の蜂起を記念して改名された

東独の歴史年表には 1953年6月17日の暴動の記述は無く、歴史から抹殺されている

1953年6月17日、東独政府の生産ノルマ引き上げに反発した労働者が各地で蜂起した

ベルリンの東側ソ連占領地区や各地の労働者達が鬱積していた政治への不満とノルマアップに抗議してストライキを起こし、1953年6月17日、それは遂に全国的な蜂起暴動へと広がった。この時の報道写真、鎮圧に出動したソ連軍の戦車に向かって歩道の石を投げる人々や、旗を持って東側からブランデンブルグ門を通って西側に行進してくる人々等はドイツ現代史の解説のなかでよく使われるので目にした人も多いかと思う。結局暴動は鎮圧されるのだが、壁が出来てから、そのことを記念してつけられたのがこの通りの名前である。

Rudorf Urbanが射殺された地点に立てられた慰霊碑
壁構築後、約一か月しか経たない 1961年9月17日に壁を超えて脱出しようとして射殺された

こちらは氏名不詳の男性(Unbekannter)の慰霊碑
こういう花輪を飾った慰霊碑を多数見かけた

西ベルリン建てられたソ連軍の戦勝記念碑
既に戦後直ぐ、1945年11月には建てられており、その後、戦勝国分割統治では英国統治領となり、壁の構築後は結果として西ベルリンに存在することになった

Café Kranzler
1825年にオープンしたカフェ。ここで Berliner Weisseを呑むのがオシャレとされていたので真似事をしてみた次第(笑)

チェックポイント・チャーリー
西側はどうってことはない検問体制。写真には写っていないが、この向こうの東側の検問所は、荷物を徹底的に調べられたり、一日滞在ビザをもらったり、強制両替をしたりと結構面倒。で、ここを通っていよいよ東ベルリンに入る。

 

【1981年3月 東ベルリン BERLIN Hauptstadt der DDR】

東ベルリンに入る際には、25マルクを1:1で強制両替をさせられる。実勢レートとは10倍規模でかけ離れていたといわれていた。まあ、テーマパークの入場料感覚で両替をする。実際には東ベルリンの物価は安く、これだけあれば食事を含め一日楽しめてお釣りがきた。が、残った東のおカネは持ち出しできないという建前だった。まあ、さほどチェックが厳しくはなかったので、今日でも持っている(笑)(上)ゲーテの20東マルク札と農民戦争で名高いトマス・ミュンツァーの5東マルク。


(上)は外貨所持申告書。

検問所 Check Point Charlieの手続きを終えて、Friedrich Strasseを少し歩いて右手を見ると、戦後36年経ってもまだ修復されていない教会が目に入った。Deutscher Domと思われるが、今日は立派に修復され、かつ視界を遮る建築物も再建されたためこういう見え方はしない

のどかな日曜日の午前中、ブランデンブルク門の「前」で談笑するソ連兵たち。旧オリンピック村の Kaserneに駐屯している士官候補生たちかと思われる。それを横目で見て複雑な表情を受けベているのは西ドイツの観光客か・・・永年そう思っていたのだが、今回解像度を上げてスキャンしてみたら、この観光客っぽくカメラを持っている男をよく見ると、この写真を撮っている私の方に鋭いを視線を向けて、妙な行動をしないか見張っている様にも見える。ということは、この男、東側の公安(国家保安省 Stasi)の人間だったんだろうか?

あの男・・・こちらを監視していたんだ!そういえばその向こうにいる人物もなんだかアヤシイ!
38年目にして初めて気が付いた戦慄の真実(笑)



再び...東ドイツの歴史年表から

壁の出来た日の記述

1961年8月13日:ワルシャワ条約加盟国の合意のもとに遂行された境界線防備措置はヨーロッパの平和を救った。西独帝国主義はこれまでで最も手ひどい敗北を喫したのである。国境防備措置によってほぼ実質的にニシベルリンから発生している諸般の妨害要因が遮断されることによって、ドイツ民主共和国の首都はすべての面において花開く新しい時代を迎える。

1961年8月16日:臨時会議に於いて市議会議員集会と評議会は、労働者階級及び首都の全ての階層の、その落ち着いた明快な態度に対して感謝した。同時にドイツ民主共和国の武装組織(軍)、武装民兵隊の所属者、そしてそのサイドにたってくれたソビエトの友人達の、国境防備措置実行に当たっての動員に対しても感謝の意を表した。

Unter der Linden
戦前の目抜通り

(当時の私のメモから)

ウンター・デン・リンデン: 戦前の、栄えていた時代にはさぞ素晴らしい並木道だったんだろうと想像させるような通りである。この頃は東ベルリンのはずれに位置していたわけで交通量も少なく、何か魅力に乏しいただの通りに落ちぶれていた。

写真には表せないが...印象は東独の国民車トラバントの排気ガスのニオイ、混合ガソリン独特のニオイが東の強烈な印象だった。これも写真に写ってはいないが50メートルおきに人民警察の制服警官が立っていた。私服はもっと多かったのだろう。

大聖堂(Berlier Dom)

ウンター・デン・リンデンを東に歩き、このあたりまで来ると壮麗な建築物の群に、戦前のベルリンというのがいかにすごい都市だったかというのが分かってくる。この写真の他にも、ギリシャ風の円柱が並ぶ端正かつ重厚な旧博物館、博物館が並ぶ通称「博物館島」、国立歌劇場...

詳しくはガイドブックを参照されたい、あるいは百聞は一見にしかず...いずれにせよ、ベルリンの「オイシイところ」は東側の手に落ちていたのだ。

ベルリンのこのパートが西に占領されていたら...いや戦争などというものが無くて、爆撃されずにそれらがすべてそのままで残っていたならば...

目を閉じれば、爆撃されずに残った壮大な建物群と、戦後、共産モダン様式に建てられた建物群の向こうに戦前の偉大なベルリンの姿が鮮やかによみがえるような気がするのは私だけだろうか?

テレビ塔(Fernsehturm)

そういう想像・感傷は目を開くとテレビ塔によってぶちこわされる。まあ趣味の善し悪しはともかく、ベルリンの郊外からもよく見える東ベルリンのシンボルである。1969年10月、東独建国20周年記念に合わせて竣工した。

ボールの部分は展望台になっており、エレベータで上って、展望だけの料金と、コーヒーがつくのとで値段が違ったはずである。このコーヒーは決してうまいものではなかったが...

右手にわずかに見えるのが共和国宮殿(Palast der Republik)東独の国会議事堂にあたるものである。かつては王宮があったのを爆破して壊し、これを建てた。

このあたりから先、東側は爆撃によって完全に破壊され尽くしたのだろう。共産モダンとでも言うべき「近代的」な外見の高層アパート、ホテルなどが立ち並んでいる。

左手にわずかに見えるのは大聖堂。この前にソーセージ(Wurst)の屋台があり、テューリンガーを食べた記憶がある。

ソ連製のディーゼル機関車
諸事情で電化されず、ソ連製のディーゼル機関車がハンブルク行の列車を牽引していた

西ベルリン・ツォー駅にて

初めてのベルリン、最後の写真。ソ連製のディーゼル機関車。2日間たっぷりベルリンの空気を吸った後のこの頃には、「おっ、これは東のモノ」というのが何となく形・デザインや雰囲気で見分けられるようになっていた。

こうして1981年、ドイツ、その分割、その歴史、容易に入ることの出来ないもう一つのドイツ、その背後にあるものへの沸々とした興味が小生の中に芽生え、以来20年近く、対象である「もう一つのドイツ」が無くなった今もなお、それは増幅を続けているのである。

三十年前のドイツ(12):東西ドイツ国境の画像 Berliner Mauerに続きます

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