三十年前のドイツ(10):東西ドイツ国境の画像 Berliner Mauer

ベルリンの壁が崩壊して三十年になります。下記は1981年3月、壁が構築されてから二十年後、ハンブルグに駐在した私が、職場の同僚と初めてベルリンに旅行した時のメモです。鉄のカーテンの向こう側、社会主義国に初めて入った興奮が記されています。

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1981年1月、雪の深い冬に北ドイツのハンブルグに着任し、私にとって初めての海外生活がスタートした。最初は見るもの聞くものが皆物珍しい、日本と違う...という誰もが通過するカルチャーショックの連続だったのが、2ヶ月も経つと西ドイツというものはありふれた日常となって自分の中に落ち着く場所を見つけて行き、自分もまた西ドイツの空気の中に案外違和感無く溶け込んで行った。西ドイツ、西側先進国...日本との文化背景の違いこそあれ、そこで日常起こることの殆どはそれなりに合理性もあり、概ね理解できる範囲のことであった。

それを根底から揺さぶり、その後の自分がドイツ史とりわけその近現代史に深い興味を抱くようになったのは、3月に同僚とベルリンに出かけたことがきっかけだった。

1981年の DB時刻表:Hamburg Hbf 発 8:00の D337列車に乗ってベルリンへ

ハンブルグ中央駅を午前8時に出発したベルリン・フリードリッヒ通り行き急行列車(D-Zug)は30分も走ると西ドイツの国境側の駅ビュヒェン(Büchen)に停まり、車内で西側国境係官の形ばかりの出国手続きを受ける。それは文字通り「形ばかりの」というやつで、当時の日本の赤いパスポートをジャケットのポケットからちょっと見せると、係官は中を見もせずに軽く頷いて...終わりだった。

列車はやがてゆっくり動き出し、鉄条網が張り巡らされ、東独国境警備兵や軍用犬がうろうろするものものしい一角をのろのろと通って、東独側国境駅のシュヴァンハイデ(Schwanheide)に到着する。初めて「東側」「共産圏」なるものに足を踏み入れたというワクワクとドキドキとハラハラでアドレナリンの分泌が極致に達するのを自分で感じることが出来る。ヤードには腹にDRという東独の国有鉄道のロゴが入った客車が停まっている。何故、共産主義国なのにReichsbahn(帝国鉄道)なんだ?

やがて静寂を破って客車のドアがガラガラと開けられ「パスコントローレ(Passkontrolle)」という国境係官の声がしてパスポートを提示し、じっくりページを繰られた後、「どこまで?」「西ベルリン」「二人とも?」「そう」という乾いたやりとりの後、通過ビザなるスタンプを押してもらう。気がつくと車両の前後のドアは小銃を持ち軍用犬を連れた警備兵にブロックされ、この停車時間を利用して外に出ることも、車内に入ってくることも出来なくなっている。ホームにも反対の線路側にも要所要所に警備兵が立ち、この列車を完全封鎖するという体制の気合いの入れ方は半端ではないことが伝わってくるのである。

 なあるほどぉ、これが東西国境...鉄のカーテンというやつかぁ、へぇ~~っ!!

小一時間ほどの停車の後、列車は動き始め、見る見るスピードを上げて、北ドイツの平原をベルリンに向けてひた走る。時速150Kmを超えるかと思われる猛スピードで、ここでも途中で人が乗り込むことも、列車から降りることも完全に拒絶するかのようである。時々通過する駅名を読もうにもとても読めたものではないのだが、駅の壁に貼られた共産圏独特のパターンのポスター(斜め上を見上げる明るく凛々しい表情の労働者と赤旗、おそらく「5カ年計画の達成を」とか「労働者の理想国家の建設に全力を」などと標語の書いてあるやつ)がちらっと見えることで、やっぱりここは共産圏なんだというのが確認できる。

やがて西ベルリンに入る手前の国境駅シュターケン(Staaken)に停まり、西側に出るということで列車は気のせいか入った時より更に念入りなチェックを受ける。駅や空港は軍事施設同様に撮影厳禁と言われていた。車内には同僚以外、誰も乗っていない。列車が動き出して、ホームにいた警備兵が視界から消えた瞬間に、シャッターを切ったのがこの写真である。突然、車両ドアがガラッと開き、銃を持った兵士が「カメラを寄越せっ」...なんていうスパイ映画のようなことは起こらなかったのだが、あのドキドキ感はそれ以降、妙に病みつきになってしまった。

列車はゆっくりと西ベルリンに入り、当時まだナチスの大物ルドルフ・ヘスが服役していた刑務所のあるシュパンダウ地区を通り...動物園駅(Zoo Bahnhof)に到着する。

三十年前のドイツ(11):東西ドイツ国境の画像 Berliner Mauerに続きます

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