- 2021-10-17
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シュヴェリーン大聖堂(St.Marien and St.Johannis、通称 Schweriner Dom)は「シュヴェリーンにある北ドイツ福音ルーテル教会の司教座聖堂。 煉瓦造りのゴシック建築(Backsteingotik)の主要な作品のひとつであり、リューベックの聖マリア教会、シュトラールズントの聖ニコラス教会とともに、この建築の初期の作品のひとつである。メクレンブルク=フォアポンメルン州で唯一の真の大聖堂であり、シュヴェリーンに残る唯一の中世建築物である」と解説されています(独語 Wikipedia)
Von Backslash – Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0, Link
建物の歴史
「大聖堂の建設には長い歴史がある。ハインリヒ獅子王は、ヴェンド十字軍の途中でオボトリット族の土地を征服し、その支配者ニクロットを倒した後、ウェンド人の大反乱以来、100年間放置されていたメクレンブルクの司教座を復活させた。彼はベルノを最初の司教に任命した。1171年 9月 9日、シュヴェリン伯爵グンツェリン 1世、メクレンブルク公プリビスワフ、ラッツェブルク司教エヴァモド、ベルノ、そしてハインリヒ獅子王が出席して、現在の大聖堂の前身であるロマネスク様式の建物に聖別式が行われた。ロマネスク様式の大聖堂の後陣が完成し、使用されるようになったのは、1171年のことだったと考えられている。完成したロマネスク様式の大聖堂は、少なくとも 77年の建設期間を経て、1248年 6月 15日に献堂された。この古い大聖堂は、同じくハインリヒ獅子王から寄贈されたリューベック大聖堂、ラッツェブルク大聖堂とともに、レンガ造りのロマネスク建築の中でも最も重要な作品のひとつであり、ブラウンシュヴァイク大聖堂とともに「Löwendomen ハインリヒ獅子王が建てた4つの大聖堂」に数えられている。旧塔の解体後は、現教会の南西側にある南門だけが残っている。ロマネスク様式の聖堂の寸法は、新しいゴシック様式の建物に比べて大幅に小さくなっていた。約 60メートルで、40メートルも短くなった。旧教会にそびえ立っていた塔は、新教会の身廊の高さにやっと届く程度だった。
新しい建物の建設のきっかけとなったのは、ある貴重な遺品の寄贈だった。1222年、ハインリッヒ・フォン・シュヴェリーン伯爵が十字軍遠征から帰還した際、キリストの血の滴を碧玉(Jaspis)封じ込めたとされる「聖血の遺物」を持ってきた。この聖遺物のおかげで、この教会はドイツ北東部で最も重要な巡礼教会となったのである。ロマネスク様式のバジリカは、すぐに巡礼者の流れに対応できなくなってしまった。また、司教は、周辺のハンザ同盟で栄えた町(ヴィスマール、ロストック、シュトラールズント、グライフスヴァルトなど)の建築計画と競合していた。巡礼、巡礼者からの寄付、ハンザ同盟都市との競争などにより、1270年頃にはシュヴェリーン大聖堂は全く新しい建物になった。
ドムベルグ(大聖堂がある場所)は、旧市街で最も高い場所にある。それまでは教区教会が建っていたため、ロマネスク様式の大聖堂はやや下の方に建てなければならなかった。しかし、新しい大聖堂の建設は、最も高い場所から始めることができた。建設が始まったのは 1270年頃で、1272年頃には「新しいクワイヤ(Chor)」、つまりクワイヤと礼拝堂の建設作業が行われたことが資料に記載されている。1327年には新しいクワイヤが完成し、袖廊(Querhaus)の東側の通路や、南側の袖廊と礼拝堂の間に建てられ、聖具室や図書館が置かれた聖職者のための集会所も完成した。新しいカペレが礼拝できるようになったので、それまでの教会を完全に取り壊す作業が始まった。袖廊と身廊の正確な建築履歴は不明である。14世紀末には、袖廊と身廊の両方が、ヴォールトを除いて完成していた。1416年には、シュトラールズントの建築家が身廊の窓と丸天井を完成させた。これで、146年に及ぶ中世のゴシック様式最盛期のバジリカであるシュヴェリーン大聖堂の建築の歴史が終わった。現在の塔は、1889年から 1893年にかけて建設されたネオゴシック様式の増築部分で、1888年にアーサー・フォン・ベルンストルフが寄贈し、バウラート・ゲオルグ・ダニエルが建設した。
Von J.G.Tiedemann’sche Hof-Steindruckerei – Meklenburg in Bildern (Lisch), Gemeinfrei, Link
Von domgemeinde – domgemeinde, PD-Schöpfungshöhe, Link
Von Harald Hoyer – Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0, Link