三十年前のドイツ(14):汎ヨーロッパ・ピクニック(Paneuropäisches Picknick)

さて、8月19日に、ハンガリーの最西部の町ショプロン(Sopron)で「汎ヨーロッパ・ピクニック」なるイベントが企画されます。これは Wikipediaに詳細な解説があるので是非ご参照ください。また、これにはオットー・フォン・ハプスブルグ(Otto von Habsburg)という人物が大きな役割を果たします。歴史の教科書に出てくる、あのハプスブルグ家の末裔です。この人の数奇な個人史も正に欧州の現代史の一部として非常に興味深いものがあります。こちらも Wikipediaをご参照ください。

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Otto von Habsburg

東独から社会主義隣国への旅行許可証

「汎ヨーロッパ・ピクニック」のポスター

Sopronの位置

ハンガリーの西部でオーストラリアに飛び出した岬のような場所

当時、ハンガリーがオーストリアとの国境を解放したというニュースを聞いて、私やホーネッカーと同じように「そこから西に出られるのではないか?」と期待した東独市民は、ハンガリーに一家で旅行に来ます。東独では海外旅行は許可制で、西側への旅行はまず認められませんが、社会主義友好諸国への出国は比較的簡単に出国ビザが発行されていました。結果として、ハンガリーとオーストリアの国境付近には「来ては見たものの、出国はできない東独市民」が大勢溢れて、キャンプ生活をせざるを得ない状況になっていたのです。

「汎ヨーロッパ・ピクニック」とは、一言で言えば、なにかのイベントにかこつけてこの人達をオーストリアに出国させてあげよう(更にそこから、彼らが望む西独に・・・)という話です。これに向けて、水面下で様々な勢力が関わって準備を進めていたのです。

オーストリア皇帝の家系でありながら、いやあるが故にオーストリアへの入国はできなかったが、かつてのオーストリア=ハンガリー二重帝国(Doppelreich)の縁でハンガリーには暖かく受け入れられていたオットー、ハンガリーを社会主義国家から民主主義国家に変貌させたいと願う同国の民主化勢力、出国したい東独市民のパスポートを準備した西独政府、この動きを歓迎支持したオーストリア政府、そしてやがで来るであろう鉄のカーテン崩壊後には経済的援助を期待して西独政府に恩を売っておきたいハンガリーのネーメト政権・・・知らぬは東独政府ばかりなりという状況だったのでしょう。

そしてついに、ハンガリーとオーストリアの間に残っていた柵の扉が開けられ、待機していた東独市民は雪崩を打ったようにオーストリアに出ていきます。

これは、コメントを付けずにニュース映像を流す番組の、その時の記録です。

こちらは例によって、西独の公共放送(ARD)の8時のニュース(Tagesshau)です。最初のアナウンスはざっくり言えば「何百人という東独市民が、本日ハンガリーとオーストリアの国境で開催されたイベントを利用して西側に脱出しました。所謂『汎ヨーロッパ・ピクニック』というイベントを利用し、そうでなければ閉ざされている国境を使ったのです。ウィーンの西独大使館によれば、8月前半だけで 1,300人もの東独市民が出国したと発表しました」という感じです。

それに続くレポートでは、国境の監視塔は空っぽであること、東独市民が西独のパスポートを貰って入国スタンプを押してもらい目的を達してよろこんでいること、ショプロンの町からバスで運ばれてきて簡単に国境を越えられたこと、オーストリアの地元の名士も馬車で駆けつけたこと、国境の鉄条網に一部をお土産にしたこと、皆でお祭り騒ぎを楽しんでいること、監視塔は展望台と化しスターリン主義時代の鉄のカーテンという遺産を皆で見たこと、政治的なイベントが、ワインやビールも持ち込まれて皆のお祭りとなっていること、民主化勢力によって主導されたが共産党員も何人か参加していたことなどが報告されています。

実は、同じニュースの後半、3分を過ぎたあたりに、当時の状況を知ることが出来る、更に興味深いニュースが読まれます。

これは「東ベルリンにある西独代表部(大使館に相当)、チェコとポーランドにある西独大使館に合計373人の東独市民が駆け込んで、不自由な状態に置かれている。西独政府は東独政府に、この状況を打開するように促した」というニュースです。

そう、この当時、社会主義友好諸国への旅行許可証は比較的簡単に取得できたのを利用して、ハンガリーの他にチェコやポーランドの西独大使館、そして地元東ベルリンにあった西独代表部に駆け込んで保護を求めるという動きが頻発し、その合計が373人にものぼっていたのです。

そもそも在外公館はホテルではないので収容能力には限度があり、僅かな庭にテントを張って野宿したり、限られた数のトイレやシャワーしかなく不衛生な生活を強いられていたことが問題となっていました。西独政府は、これは東独政府の問題だからあんたらの決断一つだ!と突き放しますが、東独政府はそもそも西側への出国を「共和国逃亡罪(Republikflucht)」という重罪としていたくらいなので、簡単には認める訳にはいきません。

そうこうするうちに、仲間である筈のハンガリーは「裏切って東独市民を西に逃がすのに加担」してしまうし、国際世論も人道的見地から東独政府に厳しい論調となり、東独政府は追い詰められていくのです。

30年前の8月19日はそんな状況だったのです。

三十年前のドイツ(15):汎ヨーロッパ・ピクニック あの場所は今?に続きます。

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