- 2021-3-14
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こんな誰も知らないような町に行ったのは当然私なりの目的がありまして・・・逆だな・・・私なりの目的地に行ったら、それがこの町に有ったということなんです。私もそれまでこんな町を知りませんでした(笑)前段でヒントを出しましたが、ここは旧東西国境の東側の町であり、ここから西に約 1kmのところに米軍の国境監視設備「ポイント・アルファ」があったのですが、それが今は博物館として当時の資料などを展示しているのです。
「ポイント・アルファ(英語のObservation Post (OP) Alpha)とは、OPロメオ、OPインディア、OPオスカーとともに、ヘッセン州のドイツ内国境にある 4つのアメリカの監視基地の 1つだった。今日、「ポイント・アルファ」は、ガイサ(テューリンゲン州)とラスドルフ(ヘッセン州)を結ぶ道路上、および長距離自転車道「鉄のカーテン・トレイル」上にある記念碑、慰霊碑、集会所の名称となっている。名前が似ているため、チェックポイント・アルファ(ヘルムシュテット/マリエンボーン国境検問所)と混同されることがあります。」(独語 Wikioedia)
↑↑ちょっと見辛いですがクリックすると拡大します。国境の西側で大きな町はフルダ Fuldaですが、Wikipediaには次の記述があります。
「第二次世界大戦後、フルダはアメリカ管理地区に属し、その後ヘッセン州の一部となったが、そこはドイツの中心ではなく、地理的にも経済的にもドイツ連邦共和国の辺縁部であった。ドイツ民主共和国とのドイツ内国境(ドイツ語版、英語版)は、街の中心からわずか約 35 km の距離にあった。このため、フルダは1989年まで東の背後地を欠いたままであった。テューリンゲンとの間の古くからの交通や経済関係が遮断されたためであった。ドイツ分裂時代、フルダはいわゆるゾーン辺縁部に含まれていた。
(フルダ・ギャップで想定されているフルダからフランクフルトへの侵攻ルート→)
CC 表示-継承 3.0, リンクによる
冷戦時代フルダは、フルダ・ギャップ(ドイツ語版、英語版)という概念から明らかなように、戦略上特に重要であった。この NATO によって創出された概念は、ワルシャワ条約機構軍が攻撃を行う際、フルダ川の谷を通って、約100 km 離れたフランクフルト・アム・マインを経由して南西ドイツに侵攻しようとするという戦略モデルである。このシナリオでは、第三次世界大戦が起こった際には、おそらくフルダが最初の戦場になると想定された。このためフルダには、ダウンス・バラックに第14装甲機動部隊を含む大きな兵舎が設けられた。1974年からこの兵舎には第11装甲機動部隊(ブラックホース連隊)が駐屯した。フルダにおけるアメリカ軍駐留は 1994年に終了した。」
要は、東側ワルシャワ条約機構軍が西独に攻め入るとすれば、ガイザから国境を越えフルダからフランクフルトに侵攻するというのが合理的とされていたのです。ということで、米軍が監視設備を設けていたということなのです。そこは今は博物館として残っており、旧国境線上には新たに「国境線上の家 HAUS AUF DER GRENZE」という旧東独側の監視体制などを展示する博物館が設営されています。
旧東独の国境封鎖設備は典型的には上の図のような構造をしていました。国境線から東側 5kmの地点には検問所があり、それ以上国境に近づくには特別な許可証が必要でした。また、国境近辺に居住していた住民の多くは「害虫駆除作戦 Aktion Ungeziefer」などという措置によって強制的に内陸部に移住させられました。
ガイザは流石に町ごと強制移住などということは不可能だったものと思われますが、上の写真のような帳簿に、家に出入りした人を記録する義務が課されていました。解説によると、旧東独国民の来訪者は3日以内に、外国人や西独からの訪問者は24時間以内に記帳することが義務付けれれ、また人民警察は定期的にこれをチェックしたり、滞在者を監視したりしていました。
ビデオには米軍側の監視施設が博物館になったものも映っています。
★★★ガイザ Geisa の項を終わります。
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