- 2019-8-19
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さて、暫く東西ドイツの国境やベルリンの壁をご紹介してきましたが、本題の「三十年前のドイツ」に話を戻します。三十年前の今日、8月19日は、その後の11月9日のベルリンの壁の崩壊に繋がる重要な事件が起こりました。しかし舞台はドイツではなく、ハンガリーです。
まず、上の動画 ↑↑ は少し遡って、5月2日のドイツ公共放送(ARD)の8時のニュースです。
ハンガリーがオーストリアとの国境線の鉄条網と警報装置の撤去を始めたと言っています。はぁ?何やってんだ?それって「鉄のカーテンに穴を開ける」ってこと?そんなことしたら、そこからどんどん社会主義体制に疲弊・絶望した人たちが流出してくるじゃん?そもそも、それを防ぐために、ベルリンに壁を作り、東西ドイツの間に金網フェンスと監視塔を設置し、その延長で西側諸国と東側社会主義陣営の間に同様の「鉄のカーテン」を設置したのではなかったの?
実際、東独の元首のホーネッカー書記長も私と同じことを考えたようで(笑)、Wikipediaには下記のような記述があります。
『翌5月3日、ドイツ社会主義統一党 (SED) の政治局会議でホーネッカーは「このハンガリーの連中は、一体何をたくらんでいるんだ!」と怒鳴っていた。それが何を意味するのかホーネッカーには分かっていたからである[4]。案の定、このニュースが東ドイツに飛び込んでくると、多くの東ドイツ市民はハンガリー・オーストリアを経由して西ドイツに行けるのではないかと考え始めた。』
更に、これ ↑↑ はそれから一か月半後の6月27日のドイツ公共放送(ARD)の8時のニュースです。
最初のニュースは「東ベルリンで天安門事件に抗議するデモ」・・・救世主教会(Erlöserkirche)グループが主導し、政府のスタンスの明確化を求めています。大虐殺とされる天安門事件に対し、社会主義友好国として東独政府や社会主義統一党(SED)はその態度を明らかにしていなかったのです。(それどころか、やがて失脚するホーネッカー書記長の後任のクレンツは北京政府の対応を礼賛したとされています。)しかし・・・教会が政府を批判する?そういうことってあるんだ・・・
二番目のニュースは「出国したいとしてデモを行い逮捕された東独市民(少なくとも7人)に対して5千~1万東マルクの罰金刑」という話。そもそも公式に出国手続きの申請をする方法はあったのですが、これを実行するとブラックリストに載って、出国は認められないばかりか、職場を追われたり、ド田舎に左遷されたり、子供の進学もできなくなったりなどという有形無形の迫害に遭うというのが通り相場だったのです。これは高額の罰金刑という話・・・まあ、これは相変わらずの東独らしい話です。
西独のトップニュースがいずれも隣国東独の話を伝えており、これはその後も続いていくのですが、私が「おや?」と思ったのは三番目のニュースでした。上の動画の 1:01あたりから始まりまるのですが、その部分から再度動画をスタートさせます(↓↓下の動画)
ハンガリーのホルン外相と、オーストリアのモック外相が一緒に、ハンガリーとオーストリアの国境に設置されていた鉄条網を切断・撤去しているのです!5月2日の地味なニュースは、両国の外相が儀式をおこなうことで俄然ハイレベルな話に格上げされます。
「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。」(チャーチル 1946年)
鉄のカーテンを構成する国は、北から東独、チェコスロバキア(当時はまだチェコとスロバキアに分かれていない)、ハンガリー、ユーゴスラビア。(南の方の青線や、細かい議論は省略)
東独とチェコスロバキアはガチガチの保守的教条的社会主義政権だったが、ユーゴスラビアはチトー政権以来、西側に対して友好的なスタンスとっており、またハンガリーもこの時、民主化運動が進んでおり、更に東独の背後のポーランドもワレサ書記長の連帯が民主化運動を率いており、所謂、東欧社会主義諸国にも温度差が生じていた。
しかし、実際にはハンガリーの検問所を通ってオーストリアに出国できるのはハンガリーのパスポート所持者だけで、東独を含むその他の東欧社会主義諸国のパスポート保持者にはちゃんと閉じた国境だったのです。従って、ホーネッカー書記長や私が危惧したようなことは起こらなかったのです。東独の一般庶民の皆さん、残念でした・・・ということでした、一応は・・・
それにしても、こんなこと一昔前には考えられなかったことです。ハンガリーは1956年の革命をソ連の戦車に蹂躙された過去があります(ハンガリー動乱)。1963年、チェコスロバキアで起こった民主化運動もソ連の戦車が出動し鎮圧されました(プラハの春)。更に1989年(この時点では数か月前)には北京で起こった学生による民主化運動は中国の人民解放軍の戦車を以て暴力的に鎮圧されたばかりです(天安門事件)。
一方で、ソ連ではゴルバチョフが政権の座にあって、ペレストロイカやグラスノスチを推進しており、一昔前なら戦車出動で鎮圧したであろう、ワレサが率いるポーランドの民主的労組の「連帯」を黙認していました。このあたりの空気を読んだ、あるいはゴルバチョフちゃんと気脈を通じていたのがハンガリーだったのだろうと思います。もう、ソ連の国内課題で手いっぱいで、あんたらの面倒は見てられないんだよ・・・好きにしていいよ・・・
ゴルバチョフは当時「(英国の)サッチャー首相の恋人」などと言われ、それまでのブレジネフやフルシチョフなどとは明らかに一線を画した開明的なスタンスとスマートな言動が、サッチャーのみならず西側諸国の首脳に受け容れられやすい雰囲気を醸し出していました。私自身、この人はホントは共産主義なんて信奉していないんだろうなという気がしたものです。彼が賢かったとされるのは、総書記の座に就くまでは体制派として、中途半端な段階で潰されることなく、総書記になってから大胆な改革を始めたことです。このあたり、サラリーマンの処世術に共通のものがあるかもしれません(笑)
彼の読み違いは・・・動き始めた東欧の民主化の波は、津波のような勢いで、彼が想定していたよりも遥かに速く、彼のコントロールが及ばないほどにパワフルにソ連を呑みこんでいったことでしょう。それは、まだこの時点では誰も読めていません。
さて、そんなゴルバチョフが醸し出す雰囲気に呼応して(図に乗って?)、ハンガリーを軸にさらに大胆なことが仕掛けられます。それが「汎ヨーロッパ・ピクニック(Paneuropäisches Picknick)」計画です。
三十年前のドイツ(14):汎ヨーロッパ・ピクニック(Paneuropäisches Picknick)に続きます。