- 2020-8-9
- ブログ
三十年前のドイツ(59):「まだ東独のあちらこちら」からの続きです。
Bromeから東独に入り、北北東に進路をとって Salzwedelを目指します。
Bromeのすぐ南には国境の村 Zicherieがあります。ここは 1989年 11月末に早速国境のフェンスの一部が撤去され、東独側の人達の西側への往来がいち早く実現した場所です。
Salzwedelはザクセン=アンハルト州の北部にある、人口 24,000人ほどの町です。ドイツ帝国のヴィルヘルム皇帝にも献上された Baumkuchen発祥の地(*諸説あります)として知られており、西独にも輸出されていましたが、何軒かの店がその本家・元祖争いをしたゴシップも知る人ぞ知る事件のようです。
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Altstadtの北辺にあたる Neuverper Strasse
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航空写真の赤い矢印に Neustäder Rathauturm、黄色い矢印のところに Neuverpertorというかつての城門があります。
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この塔のある建物はホテルだったようですが、この時点では営業を停止していたようです。
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Altstadtを南北に縦断する形で Jeetze川の細い支流が流れており、それを横切る Neuverper通りの橋からの写真が東独のガイドに載っていました。
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左は Wikipediaの写真引用で、建物の壁などが補修された最近のもの、それと同じ場所の 30年前です。
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場所は記憶にないのですが、遠景の教会の尖塔は St.Katharienenkircheと思われ、そこから判断してここは Breite Strasseと思われます。中央の小売店「K」の看板が傷んでいます。
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遠景に Neuverper Torが見えるところから、Neuverper Strasseと思われます。メルセデスや VWゴルフなど近隣の西側ナンバーの車が多く見られます。道路右側の手前の店は、東独の小売りチェーン「HO」の肉屋です。
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この通りは場所が特定で来ていません。旧市街は爆撃を免れたため古い家屋が多く残されてはいますが、東独時代に補修が行き届かず廃墟化・撤去された家屋も少なくないようです。
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乳母車の店です。赤い棒状の部品に書かれている「ZEKIWA]とは東独では有名だった乳母車のメーカーです。そのショップですが、木製の窓枠が補修されず傷んでいます。営業時間も火曜と木曜の15~18時のみ・・・
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靴屋です。店によっては東独時代の厳しい経済環境を生き延び、統一後に発展した店も数多くあった一方で、そのまま廃業してしまった店もありました。この店も検索してみましたがヒットせず・・・残念ながら廃業したものと思われます。やはり窓枠の木部が気になります。
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牛乳と Molkerei Prudukte (乳製品)の店のようです。店の中にテーブルが見えることから喫茶店のような営業もしていたと想像されます。やはり木部の傷みに目がいってしまいます。
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乳製品の店の全景
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農業(種子・苗)関係の人民公社
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映画館。前の道路に集まっているバイクはブレーメンやクークスハーフェンなど西側のナンバーばかりですが、右側の青いシャツを着た青年のバイクは東独ナンバーです。バイクライダー達の東西交流のようです。
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ルーマニア車のダチアのサービスショップ
かつて東欧諸国は西側の自動車メーカーから技術供与を受けて乗用車を生産していました。イタリアのフィアットは FIAT500をポーランドの POLSKIに、Mirafioriをソ連の LADAに、フランスのルノーは RENAULT12をルーマニア のDACIA1300に、東欧ではありませんがフォルクスワーゲンも中国のタクシー向けに SANTANAを提供していました。
東独では国産のトラバントとヴァルトブルクが主流でしたが、パトカー専用のソ連製のラダの他に、ルーマニアのダチアやチェコのシュコダなども走っていました。
Von Hajotthu, CC BY-SA 3.0, Link
最後にバウムクーヘンですが、この当時、特にスィーツには関心が薄かった私は、この町のバウムクーヘンがそれほど有名・名物だということを全く知りませんでした。
いろいろ調べると、ヴィルヘルム皇帝に献上されたとか、2軒の店が本家・元祖争いを続けてきたなど、それなりにドラマがあるようです。
↑↑ 東独時代に行列が出来ている店は今日の「Cafe Kruse」だろうと想像されます。
←日本ではドーナツ状にスライスされることが多いですが、Salzwedelでは斜めに不定形にスライスされて供されます。Advokatのような Eierlikörとともに供されるのが正統派だとこの店の女性は言っていました。
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