三十年前のドイツ(61):東独がまだ「DDR」だった頃のあちらこちら -3- Güstrow

三十年前のドイツ(60):「まだ東独が「DDR」だった頃のあちらこちら -2- Salzwedel」からの続きです。

今回は、前回の周遊ルートよりコンパクトなルートで東独の北部の町を巡ります。

比較的コンパクトな Rundfahrt

リューネブルクから東独に出かけるには、ざっくり申して「エルベ川の北に行くか、南に行くか」という選択になります。この当時は住んでいたリューネブルクから近い、東独との越境場所 Lauenburg-Boizenburgに向かうことが多く、結果としてエルベの北は多かったように思います。今回は夏時間で夜の9時過ぎまで明るい季節、午後から出かけても明るいうちに帰宅できる「コンパクトな周遊ドライブ」に出かけてみました。

ちなみに前回のルートはこちらです。また初めてのお試し周遊ルートはこちらで、今回はこの2回との被りを避けて行ったことのない町をカバーしたという訳です。

まずはギュストロウに向かいます。シュヴェリンまでは慣れた道路とアウトバーン、そこからは一般道です。当時の東独の一般道は結構デコボコで、メルセデスで走っても乗り心地はイマイチでした。右の写真はイメージです。こんなにきれいに舗装されていません。
一つ特徴的なのは Alleeといって、樹齢何年か見当さえつかないような見事な並木道が残っていたことです。これはその後の復興過程で「保護すべきなのか、道路拡張のために切ってしまうべきなのか」という議論に発展します。

シュヴェリンからギュストロウまではさしたる大きな町は無いのでひたすら真っ直ぐ車を走らせるだけです。時々、ごく小さな集落の中を通り過ぎる際に「東独らしさ」を感じようと速度を緩めます。人影はまばら・・・というか殆ど見られません。

町らしいのは Sternbergくらいですが(左はその Rathaus)、今回は時間のことも考えて通過します。本当は、こういう「日本人が未だかつて来たこともない」と思われるような町に足跡を残したいという誘惑にかられるんですけどね(笑)



ギュストロウ城はかつての Mecklenburg公の居城で、北ドイツのルネサンス様式の城の代表的なものです。

今日の人口は3万人弱と、さほど大きな町ではありません。記録に残っている写真からは、概ね右のルートを歩いたようです。この町を見てみたいと思った理由は下記しますが、あまりちゃんと下調べしてから来たという訳ではなく、この城の写真を撮った場所から見えていた筈の福音教会(Dom)の写真が残っていないのが残念です。

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マルクト広場。向こうに見える建物の階段状の破風に尖った小さな装飾物が見られますが、北ドイツのルネサンス期の建物に特徴的なものです。Paderbornの市庁舎などがその典型です。

 

じつは、ここギュストロウは 1981年12月13日に、西独のシュミット首相と東独のホーネッカー書記長が訪れ会談した場所として知られています。その時、東独政府は数万人もの秘密警察(シュタージ)と人民警察(フォルクスポリツァイ)を動員して町を封印し、一般人とシュミット首相がコンタクト出来ないような措置をとりました。

またクリスマスマーケットでは秘密警察が一般人のふりをして、いかにも楽しそうに賑わっているマーケットの様子を演出したのです。

この時の写真が非常に衝撃的で、これはどこの通りの写真なんだろうと探して歩き回ったという次第・・・物好きな(笑)結局は分からなかったんですが(笑)

なお、表通りは例によって外壁や窓枠の傷みはあるものの、なんとか見られる程度の状態でしたが、一歩裏通りに入ると、建物の傷み具合は目を覆うばかりでした。また早くもデパートの廃業・廃墟化が始まっていました。



「資本家達はバカだ!彼らは我々を失業させる!」

廃業して廃墟化したデパート

社会主義国となってから「カールマルクス通り」と改名されたものを、元の名称に戻そうとする動きです。

★註:デパートの廃墟と、カールマルクス通りの写真は、撮った場所がギュストロウ以外のようなのですが、この時代の典型的な光景としてここに掲示しておきます。

三十年前のドイツ(62):東独がまだ「DDR」だった頃のあちらこちら -4- Warenに続きます

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