- 2020-7-7
- ブログ
早朝5時起きでボイツェンブルクから東独に入り、ここまであちこちの街巡りを楽しんで、半日かけてロストックまで来て、さてそろそろ帰ろうか・・・ということになります。今更ながら地図をみて「なんじゃ、こりゃ?」と思うのですが、なんとこの後更にこれまでの4~5倍の距離を走って、ノイブランデンブルクとベルリンを経由して帰ることになるのです。思えば5月25日は夏時間、夕方9時でもまだまだ明るいというのは時間の感覚を狂わせるようです。
かつては無茶苦茶不気味に見えた監視塔 BT11
シュヴェリンの路上ではベトナム人とおぼしき連中が海賊版のテープなどを売る露店を開いていた。西独にはトルコ人が多いのだが、東独にはベトナム人が多いようであった。彼らはその後、台頭してきたスキンヘッドのならず者達に少なからず標的にされることになる。
ヴィスマールはかつてのハンザ都市で、西独の有名なデパートチェーン「カールシュタット」の発祥の地ということであった。マルクト広場は駐車場になっておりトラバントの海であった。ヴァッサークンストと呼ばれる装飾的な水くみ場や、特徴的な破風の建物が並んでいる。
北海にしてもバルト海にしても、北の海に面した保養地はどこか共通の雰囲気がある。光のせいだろうか。ここも貧しいとはいえ同じ光が射していた。あと何年か経てば見違えるようなリゾートになるだろう。
「モリー(Molli)」というニックネームが付いている狭軌鉄道で、キュールンクスボルン(Kühlungsborn)が終着駅だが、私は機関庫があるバードドベラン(Bad Doberan)を目指す。日本の旅番組などでも、ドベランの市街地を走るシーンがたまに取り上げられるので、ご存知の方は多いかも。
ロストックにはヴァルネミュンデと呼ばれる海の方からアプローチした。
流石に造船所を中心とした工業都市だ。ロストックに繋がる高速道路の両脇には巨大な団地群が並んでいた。後に造船所の経営が悪化して、その命運が新聞をにぎわす度に、あの巨大な団地がまるごと失業するという想像をしてため息が出た。町中は結構賑わっていた。ここもまず間違いなく手ひどい爆撃を受けたものとおもわれるが、残った煉瓦造りの建物のいくつかは堂々とした立派な物である。
Von Horst-schlaemma – Eigenes Werk, Gemeinfrei, Link
Von Tilman2007 – Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0, Link
Von Tilman2007 – Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0, Link
ロストックとは対照的に、ノイブランデンブルグの町は閑散としていた。港町でもなく、さしたる産業があるようでもなく、町の四方に残るかつての城門だけでは大量に観光客を惹きつけるにはやや魅力にも乏しいのだろう。ドイツ軍がここから撤退するに際して、自らこの町を爆破して廃墟にせよ、敵に何も残すな...というヒトラーの指示があったという話もどこかで読んだような気がする(実際にはソ連赤軍が無血占領後に町の 80%を破壊したらしい)。この写真のような様式の建物は、戦後製鉄所を建設するのに労働者の町ごと造ってしまったアイゼンヒュッテンシュタットのそれに似ているように思う。戦後の社会主義風建築なのだろう。
すこしはずれるともう少し低層の労働者用アパートがある。外壁のモルタルの色はどす黒い土色で、それに似たようなのは後にマグデブルグの東にある労働者団地で見かけたことがある。これもまた社会主義様式なのであろう、建物の一角に大きなガラス張りの部分があった。レストランであるが休日なのに電気が消えていた。
ヨ~イ、ドン!で「復興」のスタートラインに立った東独の各都市であるが、その立地条件によってこれからの発展の度合いに差がついて行くんだろうなということを予感させる町であった。
三十年前のドイツ(57):「Erste Rundfahrt durch die DDR 初めての東独の周遊ドライブ」シリーズを完結します。シリーズの初回はこちら。
三十年前のドイツ(58):「まだ東独のあちらこちら」に続きます。