- 2022-12-15
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Tourist Information と Museumのある「下の城(Unteres Scholoss)に入ってみることにします。
ロイス家については日本語 Wikipediaに非常に詳しい解説がありますので、是非お読みください。まあ、ドイツの諸侯の家系に関しては詳しく書けば書くほどワケが分らなくなる傾向はありますが(笑)
おまけにロイス家の男子は「ハインリッヒ Heinrich」を名乗る家法があるのでますますややこしいです(笑)まあ、考えようによっては「フリードリッヒ」「ルードヴィッヒ」「ヴィルヘルム」「ハインリッヒ」などが、入れ替わり立ち代わりゴチャゴチャと登場してくるよりすっきりしている・・・という考え方も無いではないですが(笑)
前段をバッサリ省略しますが、「ロイス家の祖」としてのハインリヒ2世ロイスの死後、その所領は三人の息子が分割相続し、それが「兄系 Reuß älterer Linie」「弟系 Reuß jüngerer Linie」の発祥となります。中子の系統は 1616年に断絶し、その所領は兄系と弟系で均等に分割され吸収されます。
右の家系図では「長子系統 ウンターグライツ」という箱と「ロイス=グライツ侯国」という箱の間が省略されていますが、オーバーグライツを得た中子系統が断絶した後、長子系統がそれを引き継ぎ、その子供・兄弟・子孫の間で、共同統治したり、やはり分割統治してみたり・・・とゴタゴタが続きます。
Obergreiz、Untergreizとは申せ、その所領も下の地図のように、あまりスッキリした形ではないのですが・・・
ウンターグライツを治めた家系は「下の城(Unteres Scholoss)」を居城とし、オーバーグライツを治めた家系は「上の城(Oberes Scholoss)」を居城とする・・・という判り易い時期もありました。
が、最終的にウンターグライツを治めた方の家系が断絶し、1768年にオーバーグライツ系の Heinrich XI.がこの二つを統合し、上の城(Oberes Scholoss)から降りてきて、下の城(Unteres Scholoss)に住むようになります。その後 Heinrich XI.は伯爵の身分から、神聖ローマ帝国の Reichsfürst(帝国諸侯)に叙され、この所領はロイス=グライツ侯国となるのです。
このあたりの経緯は独語 Wikipediaにはすっきりした解説がないのですが、何故かオランダ語 Wikipediaに詳しく解説されています。(蘭語 Reuss-Obergreiz・蘭語 Reuss-Untergreiz)
「下の城(Unteres Scholoss)」の建物自体は、1564年の3分割後に長子系統の居館として、聖マリア教会の横に建てられたものです。
この家系の最後の家長 Heinrich XXIV. は幼少期の事故のために心身に重い障害があり、1902年に父から侯位を継承した際には統治不能が宣言されており 1918年(第一次世界大戦終結の年)に革命によって退位することになりますが 1927年に死去するまで居住権を与えられていました。その死後 1929年以降、ここは博物館として使われています。大方のドイツのお城の博物館同様に、当時の部屋の再現・当時の衣装・版図・宝物などが展示されています。
↑↑ ↓↓ 1929年のオープンから 2004年まで実際に使われていた博物館の入場券売り場