三十年前のドイツ(2):そもそも東西ドイツ国境とは?

まずは、東西ドイツの分割とはどういうものかを確認しておきましょう。ベルリンの壁が構築されたのは1961年8月、私が小学校2年生の時です。ディズニー映画を見に行った映画館で、映画に先立って放映されたモノクロのニュース映画で、緊迫感のある音楽と共に人々が逃げまどい、銃を持った兵士の横で、職人たちがせっせと煉瓦を積んでいる・・・そんなシュールで意味不明なシーンを今も思い起こすことが出来ます。

しかし、その壁が崩壊したのは1989年、既に30年前のことで、若い世代には壁の存在を実感を伴って理解されるのはもはや不可能になっており、ベルリンの位置や東西ドイツと東西ベルリンの構造も誤解されることも多くなっています。無理を承知で例えるとすれば、北朝鮮の中にある首都平壌の南半分が韓国領の南平壌で、北の人民がそこに駆け込んで脱北しないように、南平壌が壁で囲い込まれた・・・そんなイメージです。

Deutschland Besatzungszonen 1945.svg

Occupied Berlin.svg
Von Stefan-XpEigenes Werk, CC BY-SA 3.0, Link

第二次大戦後、ドイツ帝国は戦勝国の米英仏とソ連によって、まずこのように分割された。更にソ連占領地域の中にあった首都ベルリンも米英仏とソ連によって分割統治された。(ポーランドに割譲されたドイツ帝国東部については割愛)

1949年、米英仏占領地域はドイツ連邦共和国(西独)、ソ連占領地域はドイツ民主共和国(東独)として独立。

この時、ベルリンの東半分は社会主義国家の東独の首都となったが、西独の首都は小都市ボンに仮決めされ、ベルリンの西半分は「社会主義国家の東独の中に浮かぶ、自由主義陣営の離れ小島」という形になった。社会主義の統治スタイルを嫌った東独・東ベルリン市民が、西ベルリンに逃げ込む事態が増加し、遂に1961年8月13日、東独政府はこの西ベルリンの周囲に壁を築き、物理的に人口の流出を阻止する施策をとった。これが「ベルリンの壁構築」である。

Iron Curtain map.svg

ちなみにこの東西ドイツの国境は、冷戦時代のウィンストン・チャーチルの有名な演説の一節「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある。」・・・社会主義陣営と自由主義陣営を分断する「鉄のカーテン」の一部を構成している。

この「鉄のカーテン」は、ヨーロッパの東西分断を象徴する言葉でもあり、「西欧」「東欧」という表現が盛んに用いられる契機ともなった。

南北朝鮮の国境のあり様を見れば明らかですが、何もしないで放置しておくと北の(東の)人達が、その政治体制に愛想をつかし南へ(西へ)亡命・流出してしまう・・・これを食い止めるために壁やフェンスを築く必要がありました。南から北へ、西から東への軍事侵攻を食い止めるという目的にはほぼ無意味な壁やフェンス・・・その本来の目的はあくまで一方的な人口・労働力の流出を食い止めることに有ったのです。

そしてこの目的の為に、下の画像のようなものものしい国境封鎖設備を、西ベルリンの周囲(所謂「ベルリンの壁」165km)と東西ドイツの国境(1,393km)に設置したのです。

東独の国境封鎖設備(GRENZSPERRAANLAGE):所謂「東西の壁」の構造

実際の東西ドイツ国境。これは東側から見たところ。黒い金網と、逃亡者の足跡が残るように整地された帯状の道、右には監視車が通る道路が見える。ベルリンの壁は殆どの部分が文字通りコンクリートの「壁」だったが、東西ドイツの国境は殆どが金網だった。これが延々と1400km近く、途切れることなく続いていた。

三十年前のドイツ(3):東西ドイツ国境の構造に続きます。

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