誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(76)★★★ ヴィッテンベルゲ Wittenberge -1-

ブランデンブルク州のヴィッテンベル Wittenbergeをご紹介します。ヴィッテンベル Lutherstadt Wittenbergとは別の町ですから混同しないように(笑)

前章のペルレベルクで少し触れましたが、ベルリンとハンブルクを結ぶ鉄道の丁度真ん中あたりにあります。この幹線はペルレベルクを通る案も検討されましたが、最終的には却下され少し南のヴィッテンベルゲを通ることになりました。エルベ川を越えて南のシュテンダールやマクデブルクに少しでも近いことが勝負を分けたようです。幹線鉄道の駅が出来たことで、町の発展は加速したものと想像されます。まあ、今は長年に亘る東独の経済運営の結果、荒廃は免れていないようですが・・・

非知名度は★★★としておきます。ベルリンーハンブルクを結ぶ幹線上にはありますが殆どの ICEは停車せず、またルターで有名な「ヴィッテンベル Wittenberg」と比べると圧倒的に知られてはおらず、更にはメクレンブルク=フォアポメルン州には「ヴィッテンブルク Wittenburg」という紛らわしい町もあって混同されがちです。ヴィッテンベル Wittenbergeですからね、ここは(笑)私個人的には、鉄道の町らしく保存機関庫(Historischer Lokschuppen)があって★くらいなんですが(笑)

ヴィッテンベルゲブランデンブルク州北西部のプリグニッツ郡に位置する都市で、プリグニッツ郡で最も人口の多い場所である。ベルリンハンブルクという大都市の中間に位置するエルベ川沿いのこの町は、中世から存在している。産業化の時代には、ヴィッテンベルク駅エルベ港を中心に、特に鉄道修理工場やミシン工場が立ち並ぶ技術センターとして発展した。近隣のペルレベルクと併せて、中規模の中心地を形成している。毎年、この町ではエルベ川音楽祭が開催される。(独語 Wikipedia

Wappen Lage Data

独語 Wikipedia
市の公式サイト
ブランデンブルク州の観光ガイドpdf
博物館のサイト
ブランデンブルク州の観光ガイド2
Liste der Baudenkmale in Wittenberge

向こうに見えている建物は鉄道のメンテナンス工場です

ICEは停まりませんが、ハンブルクカラからベルリン経由でプラハに行くECはここに停まります

Wittenberge Bahnhof:立派な駅舎ですが今はは使われている様子はありません。再び使われるようになってほしいものです。ブランデンブルク州ヴィッテンベルゲのヴィッテンベルゲ駅は、ベルリン-ハンブルク間のほぼ中央に位置し、鉄道の分岐点として超地域的に重要な駅である。 2000年には約5000人の乗客がこの駅を利用し、約100本の旅客列車が発着していた。 長い間、この駅はブランデンブルクで最も長距離の乗客が多い駅だった。2020年頃には、1日あたり約5000人の乗客と観光客、約180の発着があった。

1846年、ハンブルクとベルリンを結ぶ最大の駅舎として古典主義様式で建てられた、ヴィルヘルミニア様式の大きな食堂がある歴史的な鉄道駅。 当初は駅舎の前にホームと線路もあった。 2004年から2007年にかけての改築で、不要になった線路やホームが撤去され、駅周辺が一新されたため、駅舎は街に向かって開口している。

Historischer Lokschuppen:歴史的な機関庫ですが今は博物館になっています。

ヴィッテンベルゲ歴史機関庫はヴィッテンベルゲにある鉄道博物館。 ヴィッテンベルゲ車両基地の跡地にある。 この土地はヴィッテンベルゲ市が所有しており、鉄道博物館の運営のために、Dampflokfreunde Salzwedel e.V.とHistorischer Lokschuppen Wittenberge e.V.の両団体に提供されている。 この博物館は2012年秋にオープンし、車庫が拡張される前に信号ボックス “Wm “が完全に復元され、ヴィッテンベルゲ歴史協会(Historischer Lokschuppen Wittenberge)の本拠地となっている。(独語 Wikipedia)

博物館のサイト

駅前は Salomon-Herz-Platzとなっています。Wittenbergeに初めて製油所を作ったユダヤ系商人の名前を冠した広場です。

サロモン・ヘルツ(1791年5月15日アンハルト=ベルンブルク公国ベルンブルク(ザーレ)生まれ、プロイセンベルリン1865年7月16日没)は、ドイツのユダヤ人商人であり、ドイツ初の石油貿易会社の創設者である。

1823年、ベルンブルク市議会は商人ヘルツに、保護料を支払うことを条件に、貿易事業の開始、家の購入、結婚を許可した。同年、彼の息子ヴィルヘルム・ヘルツが生まれた。しかし、1823年にヘルツはベルンブルクからベルリンに移り、穀物の卸売業を開業し、ノイエ・フリードリヒ通り21番地にアパートを借りた。彼は穀物と菜種油の取引を始め、同じ年にエルベ川沿いのヴィッテンベルク製油所を建設し、稼働させた。1856年の火災の後、製油所は拡張され、特に技術的に刷新された。1865年、サロモン・ヘルツは、その油工場を息子ヴィルヘルムに譲渡した。

同社は、ドイツ初の石油取引会社であった。同社は、財政面およびロビー活動を通じて、1835年のヴィッテンベルクのエルベ川港の完成、1846年のベルリン・ハンブルク間の鉄道線への接続、1851年のマクデブルクへの接続線の建設を確保した。もちろん、その主な目的は、自社製品の流通を改善することにあった。

1855年、サロモン・ヘルツはベルリンの商人階級の年長者会議のメンバーとなった。
1863年、ケーテン市はサロモン・ヘルツに名誉市民の称号を与えた。彼はそこで毎年種子市場を運営し、この市場の50周年記念に際して、ヘルツは1,000ターラーを寄付し、ヘルツ財団が設立された。これは、ケーテンの貧困層支援に大きく貢献した。

  • 早くも1898年には、製油所跡地に通じる道路がヘルツ通り(Herzstraße)と名付けられたが、その後まもなくバート・ヴィルスナッカー通り(Bad Wilsnacker Straße)と改称された。
  • 2007年5月より、ヴィッテンベルゲの歴史的な鉄道駅舎前の広場は、新たにデザインされたことから「サロモン・ヘルツ広場」と名付けられた。
  • 2009年より、彼の名を冠したヘルツ・ブロイ(HerzBräu)ビールが、旧油工場内のゲストハウス醸造所で製造されている。

Salomon Herzの製油所はビール醸造所やホテルを含む総合リゾ-ト施設として復活しています。

★★★ ヴィッテンベルゲ Wittenberge -2- に続きます

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