- 2024-9-17
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★★★ ヴィッテンベルゲ Wittenberge -1- からの続きです
こういう感じで街歩きをします。町に活気が無い割に市域が広い感じがします。下の表のように 19世紀末から人口が急速に増え始め、戦前戦後及び東独が存在していた期間は3万人を超えていましたが、統一以降は人口流出モードに入り、今はピークの半分しかいません。市域が広いのは3万人を超えていた時代の名残ということでしょうね。
1900年から 1914年にかけて整備されたハイスターブッシュの住宅街、シラー広場のヨハネス・ルンゲ通りに 1906年に建てられたユーゲントシュティル様式の「Haus der vier Jahreszeiten」。 ファサードはカラフルな幾何学模様と花模様で四季を表現している。 この界隈には、他にもファッハヴェルク様式の破風、出窓、陶器、漆喰など、ユーゲントシュティルの様式が数多く見られる。
フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(Friedrich Ludwig Jahn)学校
「体操の父」と称される人物ですね。こちらから引用しておきます。独語 Wikipediaはこちら
フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンは1778年8月11日、ランツ(プリグニッツ)で村の牧師の息子として生まれた。ザルツヴェーデルとベルリンの文法学校(ギムナジウム)に通い、ハレ、グライフスヴァルトなどの大学で主に歴史と言語学を学んだ。1803年から1805年にかけては、メクレンブルクで家庭教師として働いた。
イエナおよびアウアーシュテットの戦いにおけるプロイセンの敗北と、ナポレオンによるドイツの領邦国家の占領は、ドイツの解放と統一のために働くという彼の人生の決断を形作った。1810年までの間、彼はシュネプフェンタールにあるグーツムスを訪れ、体操の練習と学校改革のアイデアに関心を抱いた。彼はベルリンで教師を務め、フリーゼンとともに秘密結社「ドイツ連盟」を設立した。ヤーンの目的は、野外での運動と民族教育および愛国教育を組み合わせることで若者たちを鍛え上げるこだった。彼は1810年に出版した著書『ドイツ民族の伝統』の中で、この考えを明らかにしている。彼が「体操」と呼んだ運動の普及に向けた努力は、1811年6月18日にベルリンのハーゼンハイデに最初の公共の体操場が設立されたことで頂点に達した。
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