誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(49):★★★ザールフェルト Saalfeld/Saale -1-

テューリンゲン州南部の町、ザールフェルト Saalfeld/Saaleをご紹介します。この前にご紹介したルードルシュタット(Rudolstadt)から鉄道で 10分程度、行政単位でもルードルシュタットと一体の運営がなされています。独語 Wikipediaによれば「ザールフェルトは、ルードルシュタット、バート・ブランケンブルクとともに、(3都市併せて)人口 6万人の中堅都市を形成し、地域センターとしての機能を一部担っています。3つの町は「Städtedreieck am Saalebogen」という枠組みで互いに協力し合っています」・・・とあります。でもまあ、ここを目指して観光に来る方も稀少でしょうから「非知名度」は★★★としておきます。

Wappen Lage Data

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市の観光サイト
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Schloss Saalfeld:Von NoRud – Eigenes Werk, CC BY-SA 4.0, ソースはこちら

ザールフェルトは 1680年から 1735年まで存在したザクセン=ザールフェルト侯国の首都(侯爵の居館があった場所:Residenzstadt ↑↑ Schloss Saalfeld)だった町です。この話は深入りすると泥沼にハマりそうですが・・・(笑)

このあたり一帯を領地としていた有力な貴族で選帝侯でもあったヴェッティン家が 1485年に領地を兄エルンストと弟アルブレヒトの兄弟で分割相続したことに話のルーツがあります。弟系の領地は後々まで概ね纏まって維持されましたが、兄系の領地は分割相続を繰り返し、細かい侯国が発生し、それがまた親族・兄弟間で相続権を巡る争いを生みました。正に相続は争族という当て字がピッタリの事例です。

1680年、ザクセン=ゴータ公国は 1675年に亡くなったエルンストの 7人の子供によって分割相続され、末子のヨハン・エルンストがザクセン=ザールフェルトを得ました(下左)

侯国はその後、相続人が絶えたザクセン=コーブルク侯国をザクセン=マイニンゲン侯国などと継承争いをした末に獲得し、1735年にザクセン=コーブルク=ザールフェルト侯国となりました(上右)。ちなみにザクセン=ザールフェルト侯国の始祖であるヨハン・エルンスト四世に嫁いだのは、今回の放浪で最初に訪問したヴァルデック侯国のシャルロッタ・ヨハンナです。

更に「ザクセン=ザールフェルト家からは後の当主フランツ・フリードリヒ・アントン公の四女ヴィクトリアが 1818年に英国のケント=ストラサーン公エドワード・オーガスタスと結婚、ヴィクトリア女王の母になった」・「その英国のヴィクトリア女王はまた同家系の従兄のエルンストと結婚」・「ヴィクトリア女王はドイツ皇帝ヴィルヘルム 2世やロシア皇帝ニコライ 2世の妻アレクサンドラの祖母にあたる」「他にもベルギー王・ポルトガル王・ブルガリアのツァーリなどを輩出」・・・等など錚々たる君主を輩出しています。結婚政策ではハプスブルク家のマリアテレジアが有名ですが、範囲の広がりやポジションの重要度では勝るとも劣らない家系だと言えるでしょう。「ヨーロッパの王室は皆親戚だ」とよく言われますが、それに果たした役割はかなりの大きいものがあります。

ちなみにこの町の博物館の学芸員の老婦人はこの家系に大変な誇りを持っていて、延々一時間近く説明してくれて・・・ちょっと閉口しました(笑)テューリンゲンのかつての Residenzstadtは戦後殆どが旧東独領となりましたが、Coburgは西独のバイエルン州に組み込まれました。老婦人の長~い話の途中で「そういえば Coburgはバイエルンに行っちゃったんだよね?」と口を挟む即座に「Nein!Franken, nicht Bayern!(違う!フランケンだよ、バイエルンなんかと一緒にしないように!」とエラ剣幕で否定されました(笑)ふ~ん、そういうものかと感じ入った次第です。

★★★ザールフェルト Saalfeld/Saale -2- に続きます

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