- 2024-9-7
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★★★ ペルレベルク Perleberg -3- からの続きです
さて分岐点に戻り、王道の Wittenberger Strasseを歩きます。Lutherstadt Wittenbergの名を冠した通りです。
タバコの卸売商のようです。営業しているのでしょうか?が、中央の屋号「Ernst Gusen Tabakgrosshandlung」で検索しても何も出てきません。左手の「Fa.Gber.Dieterle」で検索すると下のような記事にヒットします。歴史からすると、この店はあえてそういう名前を保存しているのでしょうか・・・
Zigarren- und Zigarettenfabrik Dieterle
Schwedtのテオドール・ノイバウアー通り12番地にあるディーターレ葉巻・タバコ工場は、1921年から1922年にかけて建設された。1920年代のモダンな建築様式の影響が見られる。エルンスト・ディートラーレ社は1852年に設立され、1870年以降はドイツ最大のタバコ・葉巻工場に発展し、ドイツのタバコ生産地域全体に広範な支店網を持つ、この街で最も重要な企業のひとつとなった。創業者のエルンスト・ディートラーレは、プレンツラウアー・シュトラーセの工場風景を描いたタブローをシガーボックスの表紙として依頼した。
お?これはなんでしょう?「★ Kriegsgräberstätte」とあり史跡保存指定(Denkmalschutz)のマークがあります。星が気になりますねえ・・・
ГВАРДИИ Полковник
Бобрик
ВЛАДИМИР ЛУКИЧ
РОДИЛСЯ В 1910 ГОДУ ПОГИБ 2 МАЯ 1946 ГОДИ
BEAN CARA CEPH ДАВЕНИ В БОЯХ SA CROBBAY
ARIC UZH PORKY
戦争墓地 「ソビエト名誉墓地」
グラール広場は、19世紀末に公園のような緑地として設計された。1872年にピース・オークが植えられて以来、グラール広場は戦争犠牲者のための慰霊の場にもなっている。
第二次世界大戦で戦死した14人のソ連兵のための名誉墓地は、もともと隣のマリエン広場にあった。名誉墓地は、より多くの戦死者とペレベルク地区の戦死したソ連兵を埋葬するために、グラール広場に移された。改葬と拡張の過程で、戦没者墓地は 1948年に現在の形になった。1949年 11月 15日、西プリニッツ地区のソ連軍司令部により、正式にペルレベルクの町に引き渡された。
現在、この名誉墓地には 91人の埋葬者がおり、そのうち 26人は名前が知られており、65人は不明である。碑文と黄金の星が刻まれたオベリスクと名誉墓地は、複合施設の一部である。改修工事の一環として、墓碑に刻まれた死者全員が不死であるとは限らないため、現在の名前プレートが 2つ追加された。
2020年、名誉墓地はドイツ連邦共和国とロシア連邦の資金援助により、ペルレベルク市によって改修された。ロシア連邦
名誉の思い出に ペルレベルク市
下の写真は Brandenburg州のアンガーミュンデ Angermündeの駅前にある碑で、右側のはロシア語のみで書かれています。これまでこういうソ連赤軍の戦没兵士慰霊碑は見たことがありましたが、今回のような大規模な集団墓地は見たことがなかったように思います。が、思い起こせば、例えば Sachsen州の Torgauの駅から旧市街に向かう道の左手にこんな集団墓地がありました!これは戦没ソ連兵の集団墓地だったんですね!
今回、2023年 5月から 6月にかけてのドイツ放浪で、この先まだいろいろな旧東独の小都市を訪問することになりますが、こういうことに気を付けて観察すると、かなり多くの町にこの「戦没ソ連赤軍兵士の慰霊碑・集団墓地」を発見することになります。その一例はここに記事を書いています。
ソ連(ロシア)という国は征服した国の領土内にこういうモニュメントを作って足跡を残すのがよほど好きと見えます。典型的なのはベルリンのトレプトウ公園やウィーンの Schwarzenbergのそれです(記事がありますので是非お読みください)、それに留まらず、占領した旧東独の至る所に慰霊碑・集団墓地を作ったのです。
こういうソ連の慰霊碑・集団墓地は後継国家のロシアに引き継がれ、条約で撤去できないことになっているばかりか、メンテナンスや献花の義務もドイツが負っているのです。それはプーチンがウクライナを侵略した今も変わっていません。まあ、ドイツに侵攻すればそんな条約は破棄できるのでしょうが・・・
全て調べてはいませんが、少なくともペルレベルクのそれは「GoogleMap」には掲載されていません。ささやかな抵抗なのでしょうか・・・?
★★★ ペルレベルク Perleberg -5- に続きます