誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(75)★★★ ペルレベルク Perleberg -4-

★★★ ペルレベルク Perleberg -3- からの続きです

さて分岐点に戻り、王道の Wittenberger Strasseを歩きます。Lutherstadt Wittenbergの名を冠した通りです。

タバコの卸売商のようです。営業しているのでしょうか?が、中央の屋号「Ernst Gusen Tabakgrosshandlung」で検索しても何も出てきません。左手の「Fa.Gber.Dieterle」で検索すると下のような記事にヒットします。歴史からすると、この店はあえてそういう名前を保存しているのでしょうか・・・

Zigarren- und Zigarettenfabrik Dieterle

Schwedtのテオドール・ノイバウアー通り12番地にあるディーターレ葉巻・タバコ工場は、1921年から1922年にかけて建設された。1920年代のモダンな建築様式の影響が見られる。エルンスト・ディートラーレ社は1852年に設立され、1870年以降はドイツ最大のタバコ・葉巻工場に発展し、ドイツのタバコ生産地域全体に広範な支店網を持つ、この街で最も重要な企業のひとつとなった。創業者のエルンスト・ディートラーレは、プレンツラウアー・シュトラーセの工場風景を描いたタブローをシガーボックスの表紙として依頼した。

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1920年にバンデロール税が導入されると、同社は「Lutella」、「Graue Vorzeit」、「Für die Nachwelt」といった保護された葉巻ブランドを生産した。タバコの生産は1920年代半ばに始まった。”Dotit” というブランド名は、フランス語のDoyé(Dieterle)に由来する。地下には俵屋、更衣室、剥離機があり、1階には機械室、タブローの糊付けを含む葉巻箱の製造室、箱屋、事務室があり、上階には葉巻製造室、完成した箱や型の保管室があった。屋根裏部屋には、フィラー用のミキシングフロア、葉巻倉庫、フィラー用タバコの乾燥フロアがあった。

周辺地域の農民が収穫したタバコを馬車で工場に運んだ。会社の敷地のすぐ隣には、馬車や乗馬用の馬小屋があった。家畜用の水桶の跡は今でも見ることができる。

1932年に工場が倒産すると、ブレーメンのフォーゲルサング社に売却された。社名は 「Gebr. Dieterle G.m.b.H. gegr. 1852 」のままであった。1944年、工場の敷地は、ベルリンから疎開し国防軍用のシャツを生産していた制服仕立ての会社ベルネ社に譲渡された。1945年10月、工場はソ連軍政の命令により「葉巻・タバコ工場シュヴェット/O」として生産を再開した。

1949年から 1954年にかけては、消費者協同組合がこの建物でタバコ製品を生産した。その後、生産は飲料に切り替えられ、最初はリキュール、次いでノンアルコール飲料が生産された。この国営企業には、Mineralwasserfabrik、略してMifaという社名が与えられた。その後、消費者協同組合の事務局もこの建物に置かれた。

長い空室期間を経て、2013年8月、この建物を市庁舎と警察署に改築する工事が始まった。その建築様式と、シュヴェット周辺でタバコ栽培とタバコ加工が行われていた過去の時代の証として、この建物は町にとって歴史的意義がある。2015年1月、警察と市政の一部が改築された建物に移転した。

お?これはなんでしょう?「★ Kriegsgräberstätte」とあり史跡保存指定(Denkmalschutz)のマークがあります。星が気になりますねえ・・・

ГВАРДИИ Полковник
Бобрик
ВЛАДИМИР ЛУКИЧ
РОДИЛСЯ В 1910 ГОДУ ПОГИБ 2 МАЯ 1946 ГОДИ
BEAN CARA CEPH ДАВЕНИ В БОЯХ SA CROBBAY
ARIC UZH PORKY

戦争墓地 「ソビエト名誉墓地」

グラール広場は、19世紀末に公園のような緑地として設計された。1872年にピース・オークが植えられて以来、グラール広場は戦争犠牲者のための慰霊の場にもなっている。

第二次世界大戦で戦死した14人のソ連兵のための名誉墓地は、もともと隣のマリエン広場にあった。名誉墓地は、より多くの戦死者とペレベルク地区の戦死したソ連兵を埋葬するために、グラール広場に移された。改葬と拡張の過程で、戦没者墓地は 1948年に現在の形になった。1949年 11月 15日、西プリニッツ地区のソ連軍司令部により、正式にペルレベルクの町に引き渡された。

現在、この名誉墓地には 91人の埋葬者がおり、そのうち 26人は名前が知られており、65人は不明である。碑文と黄金の星が刻まれたオベリスクと名誉墓地は、複合施設の一部である。改修工事の一環として、墓碑に刻まれた死者全員が不死であるとは限らないため、現在の名前プレートが 2つ追加された。

2020年、名誉墓地はドイツ連邦共和国とロシア連邦の資金援助により、ペルレベルク市によって改修された。ロシア連邦 

名誉の思い出に ペルレベルク市

下の写真は Brandenburg州のアンガーミュンデ Angermündeの駅前にある碑で、右側のはロシア語のみで書かれています。これまでこういうソ連赤軍の戦没兵士慰霊碑は見たことがありましたが、今回のような大規模な集団墓地は見たことがなかったように思います。が、思い起こせば、例えば Sachsen州の Torgauの駅から旧市街に向かう道の左手にこんな集団墓地がありました!これは戦没ソ連兵の集団墓地だったんですね!

右の碑は、Angermünde駅からすぐの小公園に入り口にあり、旧東独によくあるソ連赤軍兵士の慰霊碑と思われます。ロシア語とドイツ語が併記されているのかと思いきや、ロシア語だけでした。
下のはドイツ語だけですが「死んだ者達は生きている者達に(忘れないように)リマインドする」というような意味です。比較的新しいもののようです。

今回、2023年 5月から 6月にかけてのドイツ放浪で、この先まだいろいろな旧東独の小都市を訪問することになりますが、こういうことに気を付けて観察すると、かなり多くの町にこの「戦没ソ連赤軍兵士の慰霊碑・集団墓地」を発見することになります。その一例はここに記事を書いています。

ソ連(ロシア)という国は征服した国の領土内にこういうモニュメントを作って足跡を残すのがよほど好きと見えます。典型的なのはベルリンのトレプトウ公園やウィーンの Schwarzenbergのそれです記事がありますので是非お読みください、それに留まらず、占領した旧東独の至る所に慰霊碑・集団墓地を作ったのです。

こういうソ連の慰霊碑・集団墓地は後継国家のロシアに引き継がれ、条約で撤去できないことになっているばかりか、メンテナンスや献花の義務もドイツが負っているのです。それはプーチンがウクライナを侵略した今も変わっていません。まあ、ドイツに侵攻すればそんな条約は破棄できるのでしょうが・・・

全て調べてはいませんが、少なくともペルレベルクのそれは「GoogleMap」には掲載されていません。ささやかな抵抗なのでしょうか・・・?

★★★ ペルレベルク Perleberg -5- に続きます

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