誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(43):★★★ミンデン Minden -3-

★★★ミンデン Minden -2- からの続きです

前項の最後に保存鉄道の駅の場所を示す地図を掲載しましたが、ここで目につくのは「水路が交差している」ことです。これは「ミンデン水路橋あるいは水路交差点(Wasserstraßenkreuz Minden)」という場所で、南から北に流れている縦のラインは「ヴェーザー川(Weser)」、東西に横のラインを形成しているのは「ミッテルラント運河(Mittellandkanal)」です。しかし鳥瞰写真を見ると、川と運河の水面は繋がっていて水平(=同じ高さ)であるように見えて、運河は川を橋で立体交差しているのが確認できます。え?エッシャーのだまし絵の世界?(笑)

Das Wasserstraßenkreuz Minden aus der Luft gesehen:Von Jens Bludau – Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0, ソースはこちら

ヴェーザー川が写真の下方(南)から上方(北)に向かって流れていますが、この場所では右に凸に大きく円弧を描いて蛇行しています。そして、円弧が膨らみ切ったあたりに橋が架かっているのが確認できますが、これがミッテルラント運河です。

そして運河はバッファーの池のような部分でヴェーザー川と繋がっています=ここではヴェーザー川と水面の高さが同じ「はず」ですよね。橋の部分ではかなりの高低差があるのに、いつの間にかそれが無くなっている(ように見える)不思議!ちょっとエッシャーのだまし絵「滝」を思わせます。

もちろん実際にはそんなはずはなくて、ちゃんと閘門シュロイゼ Schleuse)で水が一方的に流れ出したり、ポンプを使って水位を調整するなど複雑なコントロールをして、全体として破綻しないようにしているのです。

上の写真では三角形のバッファー池の頂点にシュロイゼ(Schleuse)があります。また写真には写っていませんが、下の図面によると、右手のほうに工業団地があり、その中に船着場があって、運河に繋がる水路と川に繋がる水路それぞれにシュロイゼ(Schleuse)があります。おそらく、建築資材(セメント・木くず・砂利など)のような、嵩高い割には単価の安いものは、トラックや鉄道より船のほうが合理的な運搬手段なのでしょう。

Von TUBS, CC BY-SA 2.0, ソースはこちら

↓↓こちらに閘門(Schleuse)がどのように機能するのかを撮った 3分程の動画があります。

ヴェーザー川Weser)については、その流域に発展した独特のルネサンス様式の解説と共にこちらに解説したので、ここでは「ミッテルラント運河 Mittellandkanal」に関して情報を纏めておきます。

Verlauf des Mittellandkanals:Von Reinhard Kraasch – Eigenes WerkDiese Datei wurde von diesem Werk abgeleitet: Deutschland Bundeswasserstraßen.pngby NordNordWest, shading by Lencer, CC BY-SA 4.0, ソースはこちら

Verlauf des Mittellandkanals in Niedersachsen, Nordrhein-Westfalen und Sachsen-Anhalt.:ソースはこちら

ドイツでは、燃料や建築資材などの運搬に河川が重要な役割を果たしていますが、地形の関係から河川はざっくり言えば南から北に流れるものが多く、そこを補完する意味でこの「ほぼ東西に延びる」運河が計画されたものと思われます。東京からは放射状に延びる街道・自動車道を繋ぐ意図で圏央道が企画されたような(笑)

日本語版 Wikipediaは、独語版をかなりしっかり翻訳しているので一部分のみ引用しておきます。

ミッテルラント運河(ミッテルラントうんが、ドイツ語Mittellandkanal)は、ドイツの連邦水路で[1]、全長325.3キロメートルあり、人工的な水路としてはドイツで最長である。支線運河や連絡している水路を含めると、全長は392キロメートルに達する。ドルトムント-エムス運河ヴェーザー川エルベ川エルベ-ハーフェル運河ドイツ語版を結んでいる。より広く見て水流次数が1となる川で示せば、ライン川、エルベ川、オーデル川を結んでいることになる。西側でライン川とは、ドルトムント-エムス運河とライン-ハーネ運河ドイツ語版またはヴェーゼル-ダッテルン運河ドイツ語版経由で接続されている。東側では、エルベ-ハーフェル運河、下ハーフェル水路ドイツ語版ハーフェル-オーデル水路ドイツ語版を通じてミッテルラント運河がオーデル川に接続されている。ヨーロッパ全体で見れば、一方にオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス、スイス、他方にポーランドとチェコを結んでいることになる。

運河はエムス-ヴェーザー運河、ヴェーザー-エムス運河、ウェーザー-エルベ運河、ライン-エルベ運河、エルベ-ヴェーザー-エムス運河、エムス-ヴェーザー-エルベ運河などとも呼ばれているが、これらは古い名前であるか地域的な名前で、滅多に用いられることはない。」

計画と建設開始[編集]

低い山岳地帯が始まるより前の北ドイツ平原において、ライン川とエルベ川を結ぶ運河を建設するという最初の計画は1856年に持ち出された。この考えはクライスバウマイスター・フォン・ハルトマンの協力を得て発展した。

この計画は、東エルベ地方の農民が西部から安価な産物が流入してくることを恐れたため、国内で厳しい議論を呼び起こした。妥協として、1905年4月1日にプロイセン水利法が施工された際に建設が決定された運河は、ハノーファーまでとされた。翌年、第1段階としてベルゲスヘーフェーデからハノーファーまでの、西側でドルトムント-エムス運河と接続する区間の建設が始まった。第一次世界大戦により建設はかなり遅れたが、ミンデンまでの区間が完成して、1915年に当時はまだエムス-ヴェーザー運河という名前であったが、供用を開始した。さらに翌年、ミンデン近郊でヴェーザー川に架かる水路橋が完成し、ハノーファーのミスブルク港ドイツ語版までの区間が供用を開始して、これにより妥協案の全区間が完成した。

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1919年から、ハンザ運河ドイツ語版という連絡運河が計画された。ハンザ運河はブラームシェでミッテルラント運河から分岐し、アヒムでヴェーザー川を横断し、シュターデでエルベ川に到達する計画であった。しかしこのプロジェクトは結局着手されることはなかった。

ヒンデンブルク閘門(アンダーテン閘門)の開通(1928年):Bundesarchiv, Bild 102-06097 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, ソースはこちら

1926年7月26日に国家の方針としてミッテルラント運河の残りの区間を完成させることが決定された。

1918年12月14日には、プロイセン政府が緊急事業として、アンダーテンからパイネの区間と、ヒルデスハイムまでの分岐運河の建設を命じていた。工事の一部は第一次世界大戦直後から始まり、1928年にミッテルラント運河のハノーファーからパイネ、そして支線のヒルデスハイムまでが完成した。ハノーファー近郊のアンダーテンの閘門は、1928年にドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク臨席で開通した。

1928年にはさらに東側への次の拡張工事が開始された。1929年にはパイネの港への接続が行われ、1933年にはブラウンシュヴァイクの港へとつながった。国家労働奉仕団の支援を受けて、アルトマルク南部のモーアニーデルンゲンの湿地帯が排水され、1938年にマクデブルクのジュールフェルト閘門ドイツ語版ローテンゼーボートリフトドイツ語版が完成し(10月30日に厳粛な開通式典があった)、エルベ川までの接続が完了した。しかし、第二次世界大戦のためにエルベ川の立体交差は完成せず、エルベ川に架かる水路橋とホーエンヴァルテのボートリフトの建設は1942年に中止された。

戦後のドイツ分断時代には、エルベ川横断部の建設はもはや求められなかった。船は一旦エルベ川の水位まで下り、ニーグリップ閘門ドイツ語版を経る迂回をして、東のエルベ-ハーフェル運河ドイツ語版へと進まなければならなかった。

同様に未完成に終わったものとして、ミッテルラント運河の南部区間と呼ばれるものがある。これは1926年に決定されたプロジェクトで、ミッテルラント運河の拡大工事と同時進行することになっており、ザーレ川を開発してライプツィヒハレ地区に新たな運河を何区間か設置することになっており、これによりルール地方からマクデブルク経由で中央ドイツ工業地域に直接船舶輸送がつながることになっていた。この工事は1933年7月に着工されて迅速に進められたが、1937年以降は緩慢な動きとなり、最終的に戦争のために1942年から1943年にかけて完全に工事が打ち切られた(エルスター-ザーレ運河ドイツ語版[2]

1945年以降[編集]

1965年に、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)はノルトライン=ヴェストファーレン州およびニーダーザクセン州における運河を拡張して、IV級水路(現在のVb級水路に対応)にすることを決定した。水路を拡幅することで、より大きな船を通せるようにするものであった。ドイツ民主共和国(東ドイツ)でも、自領内の区間について運河の拡大が推進された。

ドイツ再統一後、ドイツ統一交通計画ドイツ語版第17条に、ミッテルラント運河の拡大が短期間の計画時間で盛り込まれた。1993年にハルデンスレーベンの保安用水門の建設が、そして1997年にローテンゼー閘門の建設が開始された。翌年、マクデブルクの近郊でエルベ川の峡谷を横断するマクデブルク水路橋の建設が開始された。同年、ミンデンの新しい水路橋が供用を開始した。1999年にはホーエンヴァルテ閘門ドイツ語版の礎石が置かれた。

2003年にマクデブルク水路橋とホーエンヴァルテ閘門が供用開始したことで、ミッテルラント運河の全区間が初めて通航可能となった。

さらに、オランダトヴェンテ運河オランダ語版との接続も議論されており、実現すればロッテルダム港への距離をかなり短縮することができるが、プロジェクトの経済的な実行可能性は疑問視されている[3]

なお、私が住んでいたリューネブルクにも「エルベ・ザイテン運河 Elbe-Seitenkanal」通っており、会社が有った工業団地は「Industriegebiet Lüneburg Hafen」という名称で、市の開発局長の友人が社長を兼任していました。

こんな感じです。ソースはこちら

この運河はリューネブルクの少し北でエルベ川に繋がるのですが、そこでは運河とエルベ川の水面に 38メートルもの高低差があるので、閘門では対応できません。そこで設置されたのが Schiffhebewerk、平たく言えば「船のエレベーター」です。右下の写真に「長い桶(桶には見えないかもしれませんが(笑)」が2本写っていますが、この中に船を入れて、船ごと上下することによって 38メートルの高低差に対応しているのです。その稼働する様はまさに壮観!9分ほどありますが、下にある動画を是非ご覧ください。

↑↑クリックすると拡大します。運河がエルベ川に繋がる点に注目

Schiffshebewerk Lüneburg:Von © Walter Rademacher / Wikipedia – Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0,

↓↓こちらの動画は約 3分程ですが、ベルリンの北東、車で約 1時間ほどのところにある Schiffhebewerk Niderfinowです。1934年に竣工とのことなので第三帝国の時代ですが、今もまだ現役で稼働しているドイツ最古の「船のエレベーター」です。

さて、ミンデンの紹介から大きく脱線しましたが、戦時中の記述に「第二次世界大戦中、ミンデンは空爆により大きな被害を受けた。標的は、重要な鉄道駅と車両基地、ミッテルラント運河とヴェーザー川の水路分岐点、そして「地域爆撃指令」の枠内で、特に住宅地であった。1943年 12月 29日の最初の攻撃で、市街地が攻撃され、29人が死亡した。1944年 10月、水路交差点は主な攻撃目標となった。ブッシュの工場では、破損した地下室が運河からの漏水でいっぱいになり、避難していた 25人が溺れ死んだ。1944年 11月 6日、住宅地を中心に被弾し、115人が死亡した。1944年 12月 6日、市街地が被災し、大聖堂の一部と郵便局が破壊された。毎日のように空襲があり、多くの爆撃機がベルリンに向かう途中で無差別に爆弾を落としていった。1945年 3月 28日の最後の大規模な攻撃で、市街地はひどく破壊され、186人が死亡した。1945年 4月 3日、バート・オインハウゼンからアメリカ軍が電話で街の降伏を要求している。4月4日、第1カナダパラシュート大隊は西側から町に入り、真夜中前に市場広場に到着、4月 5日午前 2時 30分に町は完全に掃討されたと報告した。1945年 4月 9日には早くも町の行政が暫定的に再開された。」

やはり、水路交差点は重要な攻撃目標となり、また周辺に地下の武器工場があったことから手酷い爆撃を受けたようです。

★★★ミンデン Minden -4- に続きます

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