- 2022-1-23
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前項の最後に保存鉄道の駅の場所を示す地図を掲載しましたが、ここで目につくのは「水路が交差している」ことです。これは「ミンデン水路橋あるいは水路交差点(Wasserstraßenkreuz Minden)」という場所で、南から北に流れている縦のラインは「ヴェーザー川(Weser)」、東西に横のラインを形成しているのは「ミッテルラント運河(Mittellandkanal)」です。しかし鳥瞰写真を見ると、川と運河の水面は繋がっていて水平(=同じ高さ)であるように見えて、運河は川を橋で立体交差しているのが確認できます。え?エッシャーのだまし絵の世界?(笑)
ヴェーザー川が写真の下方(南)から上方(北)に向かって流れていますが、この場所では右に凸に大きく円弧を描いて蛇行しています。そして、円弧が膨らみ切ったあたりに橋が架かっているのが確認できますが、これがミッテルラント運河です。
そして運河はバッファーの池のような部分でヴェーザー川と繋がっています=ここではヴェーザー川と水面の高さが同じ「はず」ですよね。橋の部分ではかなりの高低差があるのに、いつの間にかそれが無くなっている(ように見える)不思議!ちょっとエッシャーのだまし絵「滝」を思わせます。
もちろん実際にはそんなはずはなくて、ちゃんと閘門(シュロイゼ Schleuse)で水が一方的に流れ出したり、ポンプを使って水位を調整するなど複雑なコントロールをして、全体として破綻しないようにしているのです。
上の写真では三角形のバッファー池の頂点にシュロイゼ(Schleuse)があります。また写真には写っていませんが、下の図面によると、右手のほうに工業団地があり、その中に船着場があって、運河に繋がる水路と川に繋がる水路それぞれにシュロイゼ(Schleuse)があります。おそらく、建築資材(セメント・木くず・砂利など)のような、嵩高い割には単価の安いものは、トラックや鉄道より船のほうが合理的な運搬手段なのでしょう。
↓↓こちらに閘門(Schleuse)がどのように機能するのかを撮った 3分程の動画があります。
ヴェーザー川(Weser)については、その流域に発展した独特のルネサンス様式の解説と共にこちらに解説したので、ここでは「ミッテルラント運河 Mittellandkanal」に関して情報を纏めておきます。
ドイツでは、燃料や建築資材などの運搬に河川が重要な役割を果たしていますが、地形の関係から河川はざっくり言えば南から北に流れるものが多く、そこを補完する意味でこの「ほぼ東西に延びる」運河が計画されたものと思われます。東京からは放射状に延びる街道・自動車道を繋ぐ意図で圏央道が企画されたような(笑)
日本語版 Wikipediaは、独語版をかなりしっかり翻訳しているので一部分のみ引用しておきます。
「ミッテルラント運河(ミッテルラントうんが、ドイツ語: Mittellandkanal)は、ドイツの連邦水路で[1]、全長325.3キロメートルあり、人工的な水路としてはドイツで最長である。支線運河や連絡している水路を含めると、全長は392キロメートルに達する。ドルトムント-エムス運河、ヴェーザー川、エルベ川、エルベ-ハーフェル運河を結んでいる。より広く見て水流次数が1となる川で示せば、ライン川、エルベ川、オーデル川を結んでいることになる。西側でライン川とは、ドルトムント-エムス運河とライン-ハーネ運河またはヴェーゼル-ダッテルン運河経由で接続されている。東側では、エルベ-ハーフェル運河、下ハーフェル水路、ハーフェル-オーデル水路を通じてミッテルラント運河がオーデル川に接続されている。ヨーロッパ全体で見れば、一方にオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス、スイス、他方にポーランドとチェコを結んでいることになる。
運河はエムス-ヴェーザー運河、ヴェーザー-エムス運河、ウェーザー-エルベ運河、ライン-エルベ運河、エルベ-ヴェーザー-エムス運河、エムス-ヴェーザー-エルベ運河などとも呼ばれているが、これらは古い名前であるか地域的な名前で、滅多に用いられることはない。」
計画と建設開始[編集]
低い山岳地帯が始まるより前の北ドイツ平原において、ライン川とエルベ川を結ぶ運河を建設するという最初の計画は1856年に持ち出された。この考えはクライスバウマイスター・フォン・ハルトマンの協力を得て発展した。
この計画は、東エルベ地方の農民が西部から安価な産物が流入してくることを恐れたため、国内で厳しい議論を呼び起こした。妥協として、1905年4月1日にプロイセン水利法が施工された際に建設が決定された運河は、ハノーファーまでとされた。翌年、第1段階としてベルゲスヘーフェーデからハノーファーまでの、西側でドルトムント-エムス運河と接続する区間の建設が始まった。第一次世界大戦により建設はかなり遅れたが、ミンデンまでの区間が完成して、1915年に当時はまだエムス-ヴェーザー運河という名前であったが、供用を開始した。さらに翌年、ミンデン近郊でヴェーザー川に架かる水路橋が完成し、ハノーファーのミスブルク港までの区間が供用を開始して、これにより妥協案の全区間が完成した。
なお、私が住んでいたリューネブルクにも「エルベ・ザイテン運河 Elbe-Seitenkanal」通っており、会社が有った工業団地は「Industriegebiet Lüneburg Hafen」という名称で、市の開発局長の友人が社長を兼任していました。
この運河はリューネブルクの少し北でエルベ川に繋がるのですが、そこでは運河とエルベ川の水面に 38メートルもの高低差があるので、閘門では対応できません。そこで設置されたのが Schiffhebewerk、平たく言えば「船のエレベーター」です。右下の写真に「長い桶(桶には見えないかもしれませんが(笑)」が2本写っていますが、この中に船を入れて、船ごと上下することによって 38メートルの高低差に対応しているのです。その稼働する様はまさに壮観!9分ほどありますが、下にある動画を是非ご覧ください。
↓↓こちらの動画は約 3分程ですが、ベルリンの北東、車で約 1時間ほどのところにある Schiffhebewerk Niderfinowです。1934年に竣工とのことなので第三帝国の時代ですが、今もまだ現役で稼働しているドイツ最古の「船のエレベーター」です。
さて、ミンデンの紹介から大きく脱線しましたが、戦時中の記述に「第二次世界大戦中、ミンデンは空爆により大きな被害を受けた。標的は、重要な鉄道駅と車両基地、ミッテルラント運河とヴェーザー川の水路分岐点、そして「地域爆撃指令」の枠内で、特に住宅地であった。1943年 12月 29日の最初の攻撃で、市街地が攻撃され、29人が死亡した。1944年 10月、水路交差点は主な攻撃目標となった。ブッシュの工場では、破損した地下室が運河からの漏水でいっぱいになり、避難していた 25人が溺れ死んだ。1944年 11月 6日、住宅地を中心に被弾し、115人が死亡した。1944年 12月 6日、市街地が被災し、大聖堂の一部と郵便局が破壊された。毎日のように空襲があり、多くの爆撃機がベルリンに向かう途中で無差別に爆弾を落としていった。1945年 3月 28日の最後の大規模な攻撃で、市街地はひどく破壊され、186人が死亡した。1945年 4月 3日、バート・オインハウゼンからアメリカ軍が電話で街の降伏を要求している。4月4日、第1カナダパラシュート大隊は西側から町に入り、真夜中前に市場広場に到着、4月 5日午前 2時 30分に町は完全に掃討されたと報告した。1945年 4月 9日には早くも町の行政が暫定的に再開された。」
やはり、水路交差点は重要な攻撃目標となり、また周辺に地下の武器工場があったことから手酷い爆撃を受けたようです。