- 2024-7-21
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★★ シュテンダール Stendal -7- からの続きです
街歩きをします。右の地図はクリックすると拡大しますが、その中で薄い黄色で色付けされているところが、所謂「繁華街」とされるところです。
繁華街とはいえ新宿や渋谷などを想像すると大外れするのは言うまでもありません(笑)まあ、いろいろな店が軒を連ねている・・・程度の意味ですが、それでも「密集」したりはしていません。
泊まっていた Altstadt Hotelと Tangermünder Torを結ぶ Breite Strasseから歩いてみます。これが直線ならば分かり易いのですが、ちょっと曲がって Scgadenwachtenに繋がります。
ホテルから北の方に歩くと教会があります。
St.Jakobi教会です。下の版画では一番左に見えている教会だと思われます。
「なんちゃって日本メシ屋」と思われます。大抵のそれはベトナム料理屋やタイ料理屋が「SUSHI」をメニューに加えてやってるところが多いのですが、ここは「JAPASESE FINEST FOOD」と謳って勝負しています。まあ、でも日本人がやってるわけではなさそうです(笑)
日本メシ屋って、中華やベトナム料理よりも付加価値があり値段を高めに設定できるんですね。行ってみようかとちょっと心が動きましたが、まだまだこの先長いのでグッとこらえます(笑)
これは社会主義時代に建てられたデパートと思われます。当時は「MAGNET」とか「KAUFHAUS」なんて名前が付いていたんだろうな・・・
Sr.Marien教会の裏手に出ます。ここはちょっとした公園になっており、ソーセージを衝動買い!(笑)公園は「Winckelmann Platz」といい Johann Joahim Winckelmannという人を記念する場所のようで、彼の銅像が建てられています。
ハレとベルリンで学び、博士号を取得した後、ハーケは故郷で医者を開業した。1873年までシュテンダルでコレラが流行した際には、地区医として積極的に活動した。古美術品の収集家として、アルトマルク博物館協会の設立に関わり、副会長となる。1894年にはステンダールの名誉市民となった。
シュテンダールの医師フリードリヒ・ハーケの記念碑も建てられたが、描かれているのは彼ではなく、人気のある「シュペルリングス・イダ」である。市場広場の守衛ローランドとともに、町のお祭りにも登場する。歩行者ゾーンの端にある噴水の彫刻には、鳩に餌をやる女性の姿が描かれており、後に「シュペルリングス・イダ」と呼ばれるようになった。この彫刻は、寓意的な形で慈愛の美徳を表しており、19世紀にステンダールを襲ったコレラの流行と闘い続けた地区の物理学者で医務官のフリードリッヒ・ハーケ博士を指している。その後、町はヨハニター病院の院長を名誉市民とした。1906年には噴水と「シュペルリングス・イダ」が作られた。現在、市民は元の華麗な色彩を復元する運動を行っている。
そのフリードリヒ・ハーケが設立にかかわったという「Altmärkisches Museum」
歴史アルトメルキッシェ博物館は1888年10月25日に開館した。1887年6月22日に設立されたアルトメルキッシェ博物館協会が博物館の運営にあたった。設立メンバーには、地方行政官ルドルフ・フォン・ビスマルク、医務官フリードリヒ・ヘルマン・ハーケ、薬剤師カール・ハルトウィッチ、牧師エルンスト・クルーゲ、文法教師エミール・ザウアーらがいた。
コレクションの基礎となったのは、貴族フォン・アルヴェンスレーベン家、カルベ(ミルデ)出身の管理人兼主任説教師ユリウス・ミュラー、枢密医学評議員フリードリヒ・ハーケ、旧ステンダル文芸協会であった。
1953年、博物館はステンダル大聖堂の旧支部館、南回廊、西回廊の一室を借りて開館した。1階の一部は、床が地面から1メートル下がっていた。1945年4月8日、大聖堂は爆撃を受け、西回廊と南回廊の一部が破壊された。博物館所蔵の先史時代の土器2000点のうち、保存されたのはわずか200点。農村の家庭に関するコレクションは完全に破壊された。1945年以降、博物館の後援はステンダール地区に移され、1952年にはステンダール地区に移された。
1954年、博物館の一部がヴェーバー通り18番地に移転し、年間2万人が訪れるようになった。1945年から1955年までは入場無料だった。1963年、ステンダール市が美術館を引き継ぎ、シャーデヴァッヘン通りにある旧聖カタリネン修道院の部屋に移転。2008年には6000人が博物館を訪れた。