- 2021-12-19
- ブログ
デトモルトのシンボルとも言える、リッペ家の居城「Fürstliches Residenzschloss Detmold」について書きます。
独語 Wikipediaの当該項目の全般を訳しておきます。公式サイトはこちらです。:「Fürstliches Residenzschloss Detmold(公爵家居城デトモルト)は市内中心部に位置している。この城の起源は、1366年の文書に初めて記載された古城にある。壁の一部はこの時のものが残っている。
城に改築される前、8世紀後半から9世紀前半にかけて、パーダーボルン司教が所有し、シュルトハイス(Schultheiß)が統治する農場が同じ場所にあったと思われる。ここが堀に囲まれた城になったのは、1200年頃にリッペの貴族が領主になったときと思われるが、遅くとも 1263年にベルンハルト 3世がデトモルトの町を創設したときには、堀城になっていた。現在の塔の壁はこの時代のものであり、南翼と西翼の一部は 14世紀に建てられたものである。この城が初めて文献に登場するのは 1366年で、その頃、伯爵ジモン 3世はデトモルトに時々滞在していた。彼の後継者たちも一時的に先祖代々のリップシュタットの地を離れ、1200年以降またはその前後に現在のリッペ地区の領土に建てられたブロムベルク城、レンゴ近くのブラーケ城、デトモルト城に住んだ。1447年のゾェスト紛争では、ケルン大司教がデトモルト城と町をボヘミアの傭兵に略奪・破壊させた。その後、リッペ家のベルンハルト 7世が城と町を拡張し、強大な城壁で要塞化した。1468年、ベルンハルト 7世はデトモルトを定住の地とした。
彼の後継者であるベルンハルト 8世は、1549年にデトモルトに建築家イェルク・ウンカイル(Jörg Unkair)を任命した。彼はヴェーザー地方にルネサンス様式の様々な建築物を建てて有名になった人物であった。パーダーボルン近郊にノイハウス宮殿を建設した際、彼は 4つの翼を持つ複合建築を実現し、今回、そのコンセプトをデトモルト宮殿に移したのである。正面ファサードの 2つの破風と 2つの正面階段の塔に、彼の典型的なサインが見て取れる。1553年にウンカイルが亡くなり、彼の仕事はフレミングのヨハン・ロビン(Johann Robyn 別名:ヤスペロ・ロビン Jaspero Robijn)が城の中庭にルネサンス様式の回廊を建設して継続した。名匠コルド・トェニスは、門翼の建設によって新しい建物を完成させた。
17世紀の初めには小さな改築が行われ、1620年頃に台所門が、1673年にはシモン・ハインリヒ伯爵が後翼を増築し、現在の規模に完成させた。フリードリヒ・アドルフ伯爵の時代には、1715年に 2つの長い翼が再建され、内部はバロック様式に変更された。部屋は漆喰の天井や壁、絵画やタペストリーで飾られていた。18世紀から 19世紀にかけて何度か改築が行われたが、城の全体的な外観は 18世紀初頭のまま現在に至っている。
デトモルト城は、中庭の四隅に階段塔を持つ四翼式で、パーダーボルン近郊のノイハウス城のモデルに相当する。この建築様式は、いわゆるドイツのヴェーザー・ルネサンスに特徴的で、1560年頃から発展し、広まった。大砲を設置するために城を取り囲む高い塁壁や、侵入者から城を封鎖するための広い堀が特徴的であった。」
↓↓ クリックするとスライドショーになります
↓↓ ちなみにこの銅像の人物は「エルンスト・ツア・リッペ=ビースターフェルト Ernst Kasimir Friedrich Karl Eberhard, Graf zur Lippe-Biesterfeld」で、リッペ侯位継承問題の中心人物とのことです。日本語 Wikipediaに解説があります。独語版はこちら。
↓↓ 城のガイド動画です
↓↓ リッペ家の現在の当主による案内動画です