誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(31):★★トルガウ Torgau -9-

★★トルガウ Torgau -8- からの続きです

お城に続く Schloßstraßeに繋がる Katharinenstraßeを進んでいきます。通りの名前のプレートの下にもう一枚白いプレートがあり、なにか書いてあります。え?なに?ボラちゃんじゃんか?なんでここに?

あまりマメな方ではないので、訪問する町を事前にしっかりと下調べなどはやらない方なんですが・・・いや、これからはやろう!(笑)

ここまで来て「ドイツ最古の玩具商」なんてのがここにあるなんて知らずに前を素通りしていたり、ましてあのボラちゃん、いやルター夫人の Katharina von Boraがこの町のこの家で亡くなったなんてことを知らなかったり・・・たまたまこの道を通りかかったから見つけたものの、マルクト広場から直接 Schloßstraßeに出ていたら知らずに通過するところでした。

プレートには「1552年 12月 20日 カタリナ・ルター(旧姓 フォン・ボラ)がここで逝去した」とあります。その上の小さいプレートは「ヨーロッパ文化遺産」とあります。

まあ、謂われてみれば、ルターを擁護したのはヴェッティン家の弟エルネスト系の選帝侯で、ヴィッテンベルクとこのトルガウが選帝侯の優先居住地だったことを考えれば、ルターの死後はここに来ても不思議ではないかもですね。

Katharina-v-Bora-1526.jpg – Ursprung unbekannt, Gemeinfrei, Link

しかし、考えてみれば没年が 1552年ということは、弟系のザクセン選帝侯が、神聖ローマ皇帝に喧嘩を売ったシュマルカルデン戦争で、選帝侯が敗けた 1547年以降・・・トルガウは兄アルベルト系側(カトリック)に割譲されてからのことですね。庇護してもらえるあてはあったんだろうか?なにか物語がありそうです。

独語 Wikipediaから、彼女の「ルターの死以降」の項目を DeepL翻訳しておきます。ちなみに日本語版には詳しい記述はありませんが「死没:1552年12月20日(53歳)神聖ローマ帝国 アイスレーベン」とあります。アイスレーベンはルターの生誕地・死没地ではありますが、カタリナはここトルガウで亡くなったので、これは間違いと思われます。

「1546年にルターが亡くなったことで、カタリーナ・フォン・ボラは経済的に不安定な状況に陥った。1525年に後見人である法学者のヨハン・アペルに、唯一の相続人である妻のために作成させた結婚契約は、1542年のヴィッテンベルクでの遺言で確認されたが、有効なザクセンシュピーゲル(当時の法典)と矛盾するため、当初は認められなかった。しかし、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ 1世の説得により、彼女は実質的な遺産と権利を手に入れることができた。こうして、彼女は古い修道院の建物にとどまることができた。プロイセンのアルブレヒト公爵やデンマークのクリスチャン 3世などから資金援助を受けていた。

彼女はシュマルカルデン戦争前の 1546年に子供たちとマクデブルクに逃れ、1547年 7月にヴィッテンベルクに戻った。彼女の建物や領地は壊滅的な被害を受けたが、破壊されたわけではない。しかし、復興のための経済的負担により、経済的苦境に陥ってしまった。しかし、前述の王子たちの支援のおかげで、彼女は経済的に立ち直ることができた。1552年には、疫病と不作のため、再びヴィッテンベルクを離れなければならなかった。彼女はトルガウに逃げ込んだが、その門の前で馬車が事故に遭った。彼女は骨盤の骨を折ってしまい、3週間後の 1552年 12月 20日にトルガウで死去した。

彼女が亡くなった家には、彼女のための博物館がある。Torgauの Marienkircheにある正確な墓の場所は不明だが、墓碑が彼女を記念している」・・・とあります。何人もの子供を抱えながら逞しく生きた女性だと思いますが、ちょっと可哀そうな最後ですね。

ちなみにルターの生誕・死没地のアイスレーベンの記事はこちら活躍の舞台だったヴィッテンベルクの記事はこちらです。・・・しかし、これらは連載初期で、最近の記事と比べると、かなり手抜きしてるなあ(笑)トルガウが10回以上になりそうなのに、ヴィッテンベルクが4回完結ってことはないだろう(笑)いずれもう少し加筆しようと思います。



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★★トルガウ Torgau -10-に続きます

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