誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(42):★★★ポルタ・ヴェストファリカ Porta Westfalica -1-

ノルトライン=ヴェストファーレン州(Land Nordrhein-Westfalen)の町「ポルタ・ヴェストファリカ Potra Westfalica」をご紹介します。え?それってドイツの町の名前なの?なんか、ラテン語かイタリア語っぽくない?はい、そうですね!でも、れっきとしたドイツの町で、人口も 32,000人強あります。非知名度は★★★でいいと思いますが、実はここも「とある建造物」で知る人には知られています。

Wappen Lage Data

実は、今回はちょっと変則です。私が自分で「この町には行ったことがある」と自己認定する基準は、少なくとも町の中心としての「ラートハウス、マルクト広場」に行ったことがあることとしています。大抵は証拠写真を撮ります(笑) 今回ご紹介する Porta Westfalicaはそのラートハウスには行っていません。それどころか、そもそもの訪問目的に「とある建造物」にも、天候が悪く辿り着けてさえいません。この町は泊っているビュッケブルクから南西方向に2つ目の駅なのですが、早々に切り上げて、一つ戻ってビュッケブルクの隣町のミンデンに戻りました。本来なら、次回に再訪してからご紹介するのかいいのですが、折角ここまで来で、名前も変わっていることだし、「とある建造物」にも触れておきたいし・・・ということでご紹介します。というわけで、今回は Wikipediaなどの画像を借用しますが、次回ちゃんと訪問した際には、自分の写真を使って記事を補足しようと思います。

Porta Westfalica:CC BY-SA 3.0, ソースはこちら

前置きが長くなりましたが、以下、日本語 Wikipediaから町の歴史を引用します。

歴史

2008年にバルクハウゼン区からローマ時代石臼硬貨鉛鑞はんだ)、衣服のバックルの一部が発掘された。これらは紀元1世紀のものと同定された。この事から、ポルタ・ヴェストファーリカのローマ陣地はウァルスがそこから戦い(トイトブルクの戦い)に向かった夏の陣地であったと推定されている[3]。また、16年ゲルマニクスの場合も、ヴェーザー川の渡し場であるこの地でヴェーザー川の戦いが行われた可能性がある。ただし、これらの古い出土品について最終的な解釈はまだ確定していない。また、ラテン語の市名はもっと遅くになって初めて現れるものであり、ローマ人入植地が存在した証拠にはなり得ない。「ポルタ・ヴェストファーリカ」という名は貴族の間でラテン語とフランス語を話す事が流行した18世紀になってからつけられたものである。ポルタ・ヴェストファーリカはヴェーザー山地ヴィーエン山地との間のヴェーザー川の渓谷を指した。「ポルタ・ヴェストファーリカ」は1973年に市名として採用された。最初の永続的な定住地は、おそらくザクセン時代に建設されたと推定されている。

Porta Westfalica on a postcard from 1904:By Unknown author – Scan of old postcard, Public Domain, ソースはこちら

この街の集落の中で、知られている最初の入植地は1096年の文献に記録されているシャルクスブルクである。この地は当時ベルゲ家の所領であった。ベルゲ家は1397年までミンデン司教の代官権を行使した。シャルクスブルクこの地域の重要な行政都市に成長した。これを中心としてその周囲に発展し、現在のポルタ・ヴェストファーリカの中心部を形成した。1353年には「ハウス・ツー・ベルゲ」と呼ばれる城に住む城主としても記録が現れる。この頃、周囲の集落は城の名にちなんで「ハウスベルゲ」と呼ばれるようになった。1618年に市場開催権、1720年都市権が授けられた。この街は主要交通路の両側に位置し、ゆっくりと発展していった。1648年ミンデン侯領としてブランデンブルク=プロイセン領となったが、ユーベルンシュティーク、ベルク・ウント・ブルーフ、ゴーフェルト、ラントヴェール(ハウスベルゲンを含む)の代官所を統合したプロイセンのアムト・ハウスベルゲの本部所在地の地位は保持した。このアムトは現在のポルタ・ヴェストファーリカ、ミンデンバート・エーンハウゼンレーネフロートーといった都市のそれぞれ全域または一部を包含していた。ミンデン=ラーフェンスベルクの創設や「郡」の概念の導入によってアムトの重要性は低下したものの、その後もアムト・ハウスベルゲはミンデン侯領が廃止されるまで存続した。ポルタ・ヴェストファーリカは、何世紀にもわたってアムト・ハウスベルゲの本部所在地であり続けた。

1806年、この地域はナポレオン統治下のフランス領となった。現在のポルタ・ヴェストファーリカの地域は、1807年に事実上フランスの衛星国であったヴェストファーレン王国に編入され、最初はヴェーザー県ミンデン地区に属した。ヴェーザー川右岸の集落はカントン・ハウスベルゲに統合された。ヴェーザー川左岸のバルクハウゼンだけはカントン・ハッデンハウゼンの一部となった。1810年にバルクハウゼンはフランスの直接統治下領に移された。バルクハウゼンはこれ以後カントン=ミンデンに属すデュッツェンの一部とされた。現在の市域の大部分に相当するヴェーザー川右岸側はヴェストファーレン王国に残された。この地域はライネ県に編入された。

ハウスベルゲの大きな飛躍は19世紀のケルン – ミンデン鉄道会社による本線建設によってもたらされた。1864年に現在の市域内で最初のヴェーザー川を渡る橋が架けられた。1896年には、この街の象徴的建造物であるカイザー・ヴィルヘルム記念碑が建立された。1972年10月2日からの市町村再編では、1973年1月1日に15の市町村が合併し、公式にポルタ・ヴェストファーリカと名付けられた。これにより、この概念は単なる地域名ではなく、都市名となったのである。旧アムト本部所在地のハウスベルゲは市議会や行政機関の所在地となり、1978年から1988年に都市の中心として開発がなされた。

要はこのあたり、両側を山に挟まれたヴェーザー川の渓谷を、17世紀あたりにフランス語を喋るのが貴族のファッションだった時代から「ヴェストファーレンの門」という意味合いで「ポルタ・ヴェストファリカ(Porta Westfalica)」と呼ぶようになっていたんですね。かつてのローマ人もこのあたりに駐屯はしていましたが、それが故にラテン系言語っぽい名前の発祥というわけではなさそうです。

今回、旧市街やラートハウスの画像をネットで探してみましたが・・・さほど魅力的には感じなかったので(スンマセン)、次回行くとしてもやはり、今回天候のため断念した「とある建造物」を優先で行ってみようと思います。↓↓ こんな天候だったんです。山の上に何か見えますね?

★★★ポルタ ヴェストファリカ Porta Westfalica -2- に続きます

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