三十年前のドイツ(31):1989年10月中~下旬の状況

10月18日に大きな出来事があります。18年に亘って社会主義統一党(SED)書記長の座にあったホーネッカーが全ての役職を解任されるのです。東独建国四十周年を祝った僅か十日余りでその座を追われることになりました。表面上は77歳で記念行事直前にも入院していたホーネッカーの健康上の理由ですが、明らかに失脚でした。

社会主義陣営の盟主としてのソビエト連邦のゴルバチョフがペレストロイカやグラスノスチなど改革を推進し、足元の東独国内でも民主化や自由化を求める市民のパワーがマグマの様に溜まって爆発寸前、規制をしても隙間から漏れるように近隣諸国経由で西独に逃げてしまう・・・これまでのような、国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit:Stasi:シュタージ)を軸とした監視・密告体制で不満分子を抑え込んで見せかけの平穏を維持するのは最早限界に達していたのです。

後任に選出されたのはエゴン・クレンツ(Egon Krenz)、ホーネッカーが設立した自由ドイツ青年団(FDJ:Freie Deutsche Jugend)の生え抜きで、ホーネッカーに次ぐ地位にあった人物。大胆な改革を期待していた東独市民はこの人事に失望します。彼は脱東者の激増に対し何らかの手を打つようにホーネッカーに進言はしましたが、逆に長期休暇を命じられ10月までは政権中枢から外されていました。

ゴルバチョフはホーネッカーに改革を促しましたが、それを頑として聞き入れないため、クレンツやシャボウスキーなどの幹部に「改革したまえ」と書記長解任を示唆します。これを受けての失脚工作の末にホーネッカーを解任しますが、東独市民の目からは結局は看板の架け替え程度にしか映らなかったのです。

また、かつてはソ連を中心に鉄壁の結束を誇っていた社会主義陣営の崩壊も始まっています。ハンガリー人民共和国が、社会主義国家のシンボルワードである「人民」を外してハンガリー共和国となる宣言をします。1956年、ハンガリー動乱ではソ連の戦車に蹂躙されましたが、今回ゴルバチョフのソ連は動きません。歴史が動き始めています。

(この項、後日補足・加筆予定です)

【1989.10.18 水曜日】

1. Entmachtet(権力剥奪)
2.Wechsel an der SED-Spitze(社会主義統一党トップの交代)
3.Reaktionen(反応)
この交代劇に対する東独内外の反応は歓迎ムードはなく、様子見あるいは懐疑的といったものと伝えています。東独の市民運動家 Bärbel Bohleyは「失望した。クレンツは国民の不信感を払拭するためにかなりの努力をしなければならない」。また西独のコール首相(与党 CDU党首)はイタリア代表との会議中にこのニュースを聞き、「我々は改革のプロセスが漸く東独でもチャンスを得たものと期待している」とコメント。

野党 SPD党首のヨッヘン・フォーゲル(Jochen Vogel)は「クレンツは天安門事件の際に、あれを支持する発言をした人物だということを忘れてはいけない。しかし、人間は誰しも学習して変わることができるものだという好例になることを期待したい。」、FDPのラムスドルフ党首は「政権トップが交代したことだけでは、別に新しい政策がとられるということを意味しない。クレンツは国民の自由化に対する要求を真摯に受け止めなければならない」などとコメントしています。

【1989.10.19 木曜日】 

1.Gespräch mit Kirche und Arbeitern
2. Reform-Diskussion
3. Skepsis nach Krenz-Rede
4. DDR-Flüchtlinge
クレンツは早速、東独政府も変わろうとしていることをアピールするべく、労働者や教会との対話を始めます。東独のニュース番組 Aktuelle Kameraで、労働者がクレンツに対し現状の問題を指摘していますが「労働者がこんなテレビの前での意見表明することは数週間前は考えられなかった」と報じています。またエヴァンゲリッシュ教会(福音派)の幹部とも対話し「歴史に新しい章を書き加えるのに協力欲しい」と表明、就任初日に教会との対話をするのは普通ではなかったことだとコメント、またポツダムの SED地域本部は、市民運動のノイエス・フォールムを対話に招待したということで、これもクレンツの意向に反するものではないだろうとと言っています。

クレンツがこういう姿勢をアピールする一方で、市民の声は「我々には関係ない。自分の党と権力の話だ」とか「SEDは改革に取り組むのが5年遅すぎた」、「いや20年遅い」などという厳しいものです。モスクワではプラウダ紙のみがこれを報じ、ニュース番組でも二番目の扱い。彼はスマートではあるが、ホーネッカーのナンバー2であり、ペレストロイカを実行するタイプではないという空気が広がっていたようです。西独のゲンシャー外相も「ノイエス・フォールムのような改革寸動とちゃんと対話しなければならない。自由は個人の根源的な権利であり、それを尊重せねばならい」などと述べています。

ホーネッカーの解任後も、西独への脱出する東独市民の波は治まる気配を見せず、昨日はハンガリーから 2,000人、一昨日は 1,200人が西独に脱出、ワルシャワにも西独への脱出希望者の数が増加し、1,750人にもなり、今夜 135人がチャーター機でデュッセルドルフに到着したとのことです。

【1989.10.20 金曜日】

1. Angebot zur Rückkehr
2. Rerormdiskussion
3. “SED soll Opposition anerkennen”

【1989.10.21 土曜日】

1. Demonstrationen
2. Telefongespäch
3. Flüchtlinge

【1989.10.22 日曜日】

1. FDGB-Chef für neuen Kurs
2. Reform-bestrebungen
3. Kritik aus Moskau
4. Fluchtwelle

【1989.10.23 月曜日】

1. republik Ungern ausgerufen
2. Arbeiter gründen Vertretung
3. Demonstrantionen
4. Regelung für Flüchtlinge
ハンガリーが社会主義国家のシンボルワードである「人民」を外してハンガリー共和国となる宣言をします。

Bundesarchiv Bild 183-1989-1023-022, Leipzig, Montagsdemonstration.jpg
Von Bundesarchiv, Bild 183-1989-1023-022 / Friedrich Gahlbeck / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link

【1989.10.24 火曜日】

1. Nun auch Staatschef
2. ZK-Sitzung
3. Uebergriffe zugegeben
4. Machtanspruch der SED kritisiert
5. Zu Treffen mit Krenz bereit
社会主義統一党の書記長となっていたクレンツは、東独の国会に相当する国家評議会議長にも選出され、国家元首となります。

三十年前のドイツ(32):1989年10月下旬の状況に続きます

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