三十年前のドイツ(21):1989年9月初の状況

9月に入り、中欧ハンガリーやその周辺は秋の気配が濃くなり、天気も悪く寒くなってきています。私が住んでいた北ドイツでも、8月末には自動でスチームのスイッチが入っていました。ハンガリーに「休暇」という名目で滞在していた数万人の「脱東」希望の東独市民は、東西ドイツ政府の間でその扱いが決まらず、ハンガリー政府も板挟み状態で身動きが取れず、キリスト教団体などの支援を受けながらも寒空にキャンプ生活を強いられています。

そんななか9月3日の日曜日、東独でライプツィッヒメッセ(産業見本市)が始まり、海外からの来訪者も数多くやってくる中で、4日の月曜日、昔から続いているニコライ教会での月曜ミサの後、市民は自由を求める横断幕を持って街に出てデモを始めますが、私服の公安(Stasi)に妨害されます。

東独サイドは、西側に逃げ出すべくハンガリーに滞在している東独市民に「今、帰国すれば罪には問わない」とし、キャンプ場に臨時の相談窓口を設けますが、誰にも相手にされません。この他にも、東ベルリンの西独代表部、プラハやワルシャワの西独大使館に数百人の東独市民が駆け込み、その扱いが決まらず不自由な生活を強いられており、西独政府は東独や各国政府に人道的な扱いを求めます。西独サイドでは、集団での出国はいずれ時間の問題として受け入れ準備を進めて行きます。

こんな状況下で、東独元首のホーネッカー書記長は病気療養中です。米国の高官から「東西ドイツの再統一を容認する、それが自然だ」という発言もでてきます。

【1989.9.2 土曜日】

コール首相が西独市民に対して「戦後、東側で(ソ連占領地区だったために)不幸な目に遭った同報への連帯を呼び掛けた」と言っています。また、ハンガリーに滞在している東独市民の「集団出国 Massenausreise」に関しては、近々解決されるだろうと楽観的な見通しを持っていると伝えています。東独市民の一部はブダペストから140kmほど離れたバラトン湖のキャンプ地にバスで移送されています。オーストリアでは50台の鉄道車両の他、バスなどが来るべき事態に備えています。オーストリア政府も、脱東してくる東独市民を全員西独に送るということではなく、オーストリアで働けるものは受け入れるようなこととも検討しています。

【1989.9.3 日曜日】

ライプツィッヒで開催される秋の産業見本市で、西独政府は、東独政府の Willy Stoph首相に直接、脱東者問題にきちんと向き合って貢献するように、特に東ベルリンにある西独代表部に駆け込んだままになっている116人の人達の扱いに対して人道的な対応をすうよう申し入れます。これはその後の交渉によって、罪には問わないという約束がなされたということで一旦帰宅という運びになります。東独側の交渉人は Vogelという弁護士で、その後の交渉でも常に窓口となる人物です。

ライプツィッヒメッセでは西独との経済協力とか、フォルクスワーゲンのエンジンを東独の国民車トラバントに供給するというような話もありますが、このままでは東独製品は国際競争力を失い、なんらかの改革が必要だと言っています。

来たるべきハンガリーからの集団出国に関し、最新の人数見積もりでは従来の 15,000人から 10,000人以下に下方修正されています。(差分は既に自力で脱東したか?)キャンプ地では、メディアの過剰な取材に対する拒否や、マルタ十字騎士団のボランティアの活動が報じられています。

最後に、ボンの駐独アメリカ大使の Walters氏は、平和で自由な投票によって東西ドイツが統一することに肯定的な発言をしたと言っています。この「脱東者」の波のなかで、ドイツが二つ存在することは正常ではない・・・

【1989.9.4 月曜日】

国際産業見本市が開幕したばかりのライプツィッヒで、ニコライ教会で伝統的に行われてきた平和の祈りという夕方のイベントが終わった後、市民たちが自由や権利を要求し、横断幕を掲げ町に出ます。しかし、人民警察や私服の公安達がそれを妨害する様子が報告されています。Wir wollen raus!(俺たちは出国したいんだ!)とか、Stasi raus!(公安警察は出ていけ!)などの叫びが聞こえます。これは結構重要なニュースです。この後、ライプツィッヒの「月曜デモ:Montagsdemonstration」は壁の崩壊に大きな役割を果たしていくことになるのです。

ハンガリーに滞在している東独市民のこれからについては、まだ明確な合意がなされていません。ここでは、西への出国を町望む若い母親とその子供への密着取材があります。

【1989.9.5 火曜日】

西独国会は予算の議論ですが、やはり東独の「脱東」希望者のことが大きなテーマになっています。ハンガリーに滞在中の大量の東独市民の運命はまだ方向が見えません。中にはハンストを行うという若者も出てきます。

そもそも、ハンガリーと東独の間には、東独市民を第三国に出国させないという条約があり、汎ヨーロッパ・ピクニックのような例外は例外として、ハンガリーとしても無条件でどんどん出国させるわけにはいかなかったのです。一方で、先が見えないまま長引くキャンプ生活に疲弊していく東独市民に対して「人道的見地から出国を認めて欲しい」という西独政府からの要請もあり板挟み状態にありました。

後半では相変わらず頑なな姿勢を崩さない東独政府について述べられています。東独の独裁政党の社会主義統一党(SED)の機関紙である Neues Deutschlandや、国営放送のニュース番組 Aktuelle Kameraなどで「西独による煽動キャンペーンで他国に圧力をかけたりすることは深刻な結果を招くだろう」などと警告しています。病床のホーネッカーも「改革や市場経済の導入などは不要だ」とのコメントを紹介しています。

【1989.9.6 水曜日】

「脱東者」の問題に関して、東西ドイツ政府間では複数のレベルでのコンタクトが続いているが、東独側の態度は変わらないと言っています。西独政府としてはハンガリー政府が人道的な対応をしてくれることを期待しているが、難民のキャンプ地に多数の報道カメラが設置され衆人環視に晒されていることがハンガリー政府の対応を難しくしているとのこと。

東独政府は、難民のキャンプ地にキャンピングワゴンを設置して、帰国したい人の為に臨時の相談窓口を設けたものの、誰一人として利用しないとのことです。

【1989.9.7 木曜日】

東西ドイツ間の交渉は進展せず、ハンガリー政府も身動きが取れず、時間が過ぎていきます。ただ、向こう6日以内にハンガリーに居るものは出国できるかも・・・みたいなことも言っており、水面下で何らかの話が進んでいるのかもしれません。ハンガリーのバラトン湖周辺のキャンプ地には 6,500人もの「脱東希望者」がおり、赤十字はその実態を把握するため、氏名・住所・生年月日などのリストを作成し始めますが、脱出の準備というものではないとのことです。

最後の方では、東ベルリンでデモをしようとした人権団体が人民警察によって理由も告げられず拘束されたということを報じています。

【1989.9.8 金曜日】

8月の初め頃から東ベルリンに西独代表部に駆け込んでいた116人の東独市民は、西側への出国を要求していましたが、結局東独政府がこれを認めず、目的を達成できないまま全員が帰宅することになります。帰宅すれば罪には問わないことは保証され、その後は出国申請をちゃんと審査して取り扱うという条件で駆け込み組は妥協したのですが、出国を約束するというものではなかったようです。

西独の交渉人 Walter Priesnitzと、東独の交渉人 Vogelで、ハンガリーにいる東独市民に関してなんらかの人道的措置が合意されたようです。ただ、まだプラハとワルシャワの西独大使館に駆け込んだ350人についてはペンディングのようです。

ベルリンの壁崩壊まであと60日。

三十年前のドイツ(22):1989年9月初~中旬の状況に続きます。

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