- 2019-9-8
- ブログ
ハンガリー政府は遂に人道的見地から、国内に滞在していた万単位の人数の東独市民の出国を認めます。9月10日の日曜日の深夜、11日に日付が変わると同時に、どの国境検問所からを問わず、自分の行きたいところに出国していいという決定がなされ、オーストリアとの国境検問所は、約60日後に起こるベルリンの壁の国境検問所の前兆のような歓喜に包まれ、トラバントに乗った東独市民たちが出国していきます。
当然ながら東独政府とハンガリー政府の関係は悪化し、対立は深刻化していきます。が、ハンガリー政府は国境を開放したまま維持します。
【1989.9.9 土曜日】
遂に、ハンガリー政府が人道的な措置で東独市民の出国をさせるということは疑いのないこととなり、難民キャンプにも支援団体サイドにも明るいムードが漂っています。マルタ騎士団が運営するキャンプには約 7,000人が出国を待っていますが、毎日列車や飛行機で 350人もの「脱東」希望者が到着しの数が増えるため、追加でキャンプを開設しています。難民の生活はテレビやカメラマンによって撮影され、プライバシーは無いようです。
コール首相がハンガリー政府に感謝の意を表明しています。
【1989.9.10 日曜日】
ハンガリー政府は9月11日月曜日0:00時を以て約6千人以上にもなる東独市民を「自分で選んだ国境検問所のどこからでも、第三国に出国させる。オーストリアだけでなく、ユーゴスラヴィアも含む。その際の書類は、東独のパスポート、西独から発給してもらったパスポート、或いは赤十字が発行した証明書でも構わない」ということです。
これに関してハンガリーのホルン外相がインタビューに答えています。(■ 大野註:この人の名前はホルン・ジュラ Horn Gyulaと言いますが、ハンガリー語(マジャール語)は所謂「印欧語」とは別系統のフィン・ウゴル語族に属し、日本語と同じく苗字が先に来ます)
このインタビューの中で、ホルン外相は、1960年に東独と交わした条約(東独市民を第三国に出国させない)を一時停止すること、全部で何人になるかはわからないが、6万人くらいだろうということ、西側の報道で「出国者一人当たりなにがしかのお金を西独政府がハンガリー政府に払っているのではないか?」というのに対して明確に否定するということを述べています。
コメントは「東独との条約を破っても、6万人にものぼる東独市民を出国させるという大胆な決断」と言っています。
By א (Aleph) – , CC 表示-継承 2.5, Link
By Túrelio – , CC BY-SA 2.0 de, Link
By Bundesarchiv, B 145 Bild-F079283-0006 / Engelbert Reineke / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link
By Bundesarchiv, / CC-BY-SA, CC BY-SA 3.0 de, Link
このハンガリー政府の決断に対し、東独政府は今のところ沈黙し、西独政府は感謝のコメントをしています。西独のゲンシャー外相がインタビューに答えています。ハンガリー政府が東独との条約を破っても人道的な決断をしたことに対する感謝、これはハンガリー政府の独自の決断で西独が圧力をかけたのでも、東独とネゴしたのでもないこと、ハンガリー政府は西独に見返りを要求などしていないこと、ハンガリーに居る6万人の東独市民に適用されるだろうこと、恒久的な措置かどうかはわからないが、数日で終わりではないだろうこと、西独としては大変な思いで「脱東」してきた同胞に万全のケアをすること、ウェルカムだ!・・・などが述べられています。
その後に、西独の SPD(Sozialdemokratische Partei Deutschlands:ドイツ社会民主党)の Vogel党首が、「脱東」者に対し、全ての組織やコミュニティがが連帯して協力を、SPDもその用意があると呼びかけ、更に東独政府に路線変更と改革をするように警告(Mahnung)をています。
次に、カトリックのベルリン司教区の Sterzinsky司教が、大量の「脱東」(Massenflucht)に懸念を表明しています。続いて、東独の指導部が、東独市民の不満について否定したというニュースで、ナチズムの犠牲者を追悼する集会に於ける SEDの政治局員 Hermann Axelの演説を流しています。そして、日曜日の夕方、ハンガリー政府が同日の深夜零時に、ハンガリー滞在する東独市民の出国を認めるというニュースを受けて、ハンガリーとオーストリアに感謝の言葉を述べています。
最後に、東独が西独との国境警備を強化するという発表で、新型のハロゲンライトを導入し、警備兵を倍増させると報じています。
【1989.9.11 月曜日】
最初に、ハンガリーから出国してきたばかりの若者の喜び溢れるインタビューが流れ、アナウンスが始まります。それによると「昨日のハンガリーの出国許可決定から約一日経った本日夕方の時点で、国境を越えてバイエルンに入った人数は約3千人、更に合計約1万人がバスや自家用車で向かっているとのこと。彼らは何日かバイエルンの緊急受入施設で過ごすか、直ちに親戚や友人宅に向かうことになる。出国者の平均年齢は27歳以下だ」・・・ということです。
その後、無事出国が出来て歓喜に湧く脱東者、バイエルンの緊急受入施設の状況、西独の国境管理官による入国書類作成、幼児の預かり施設、商業安定所(Arbeitsamt)による失業保険給付申請手続、50マルクト200マルクの現金支給、東独の車は10日間は自賠責でカバーされること・・・等、かなり至れり尽くせりというか、入念に準備してきた細々としたアクションがとられます。このあたり、ドイツ人だなあと感心しますね!
続いて、「ホルン外相によれば、ハンガリーはこの出国許可措置を一週間延長する。東独政府はハンガリーに居る東独市民を帰国させようとしているが、にも関わらず滞在人数が増加する場合は、人道的な措置を講じなければならない。ホルン外相は更に、ハンガリーは東独との(東独市民を第三国に出国させないという)条約をキャンセル或いは変更したいと考えていると語った」と報じています。
今日も東独からハンガリーに「休暇(Urlaub)」ということでやってきたようだとのこと。続いて、キャンプと出国の様子が報じられています。キャンプは空っぽになりますが、支援団体のマルタ騎士団はもう暫く、期間を定めずキャンプをキープすると言っています。また聖家族教会で、支援に対する感謝のミサが行われています。
各方面からの反応が報じられています。この中で東独は、今回の東独市民の出国を、かつてナチスが行ったユダヤ人狩り「夜と霧作戦」になぞらえて批判しています。ハンガリーは東独との間に、東独市民を第三国に出国させないという条約を結んでいますが、どこにでも自由に出国できる」という国連憲章にある人権により高い価値を見出したとしています。またポーランドはハンガリーに理解を示しましたが、ソ連・チェコ・ルーマニアはまだ沈黙していると言っています。所謂「社会主義陣営」なるものはもはや存在せず、東独はハンガリーへの出国を制限するかどうかという難しい決断を迫られます。
プラハの西独大使館に駆け込んだ 400人についての状況は変わっていないとのことです。
【1989.9.12 火曜日】
プラハの西独大使館に駆け込んだ、約 400人の東独市民の約半分は、西独の代表団と、東独のフォーゲル弁護士との四時間に及ぶ議論の後、約半数の 200人が大使館を後にしたということです。その際、4日前に東ベルリンの西独代表部に立てこもった東独市民と同じように、出国は認める訳ではないが、罪には問わず、出国申請をちゃんと取り扱うという提案をしたが、200人はそれを受け容れず、大使館に留まることになったとのことです。
東独政府がハンガリー政府に対し、東独市民の出国を止めるよう抗議していますが、ハンガリー政府は拒否します。東独政府は、出国者一人当たりいくらという対価をもらっているだろうとか言っていますがハンガリーは否定します。
続いて、ゴルバチョフ書記長の政敵であるソビエト連邦(ソ連 UdSSR)の政治局員リガチョフの訪問のニュースです。リガチョフは保守派で、東独政府の立場を支持し、東独はワルシャワ条約機構の欠くべからざる一員で、その主権と、国境の不可侵性を支持する発言をしています。
ハンガリーから出国した東独市民は一万人を超えたがピークは過ぎたとのことで、あと数千人が出国する見通しのようです。バイエルンの Teifenbachやヘッセンの受け入れキャンプの様子が報じられています。
【1989.9.13 水曜日】
ハンガリー政府と東独政府は、これから三週間後の、10月7日の東独建国40周年の日以降は、東独政府の承認無き東独市民の第三国への出国を認めなくするということに合意します。ハンガリーは東独市民にとっての、第三国への「踏切板」ではなく、国境を永遠に開放しておくわけではないとしていますが、また再び鉄条網のような厳重な国境封鎖設備を設置することも考えていないと・・・
このニュースを受けて(今が最後のチャンスと)東独からハンガリーへの旅行申請が増加します。出国に成功した人達も、これから逃げてくる友人たちへの影響を考えてあまり多くを語りません。この日までにハンガリーからオーストリアに出国した東独市民は 12,000人に上るということです。
西独サイドでは受け入れた東独市民達への職業の斡旋を行っています。パッサウでは建設業・金属加工業や医療関係などで多くの求人があり、出国してきた人たちは比較的若い年代層ということもあって楽観的なトーンの報告です。
プラハの西独大使館に駆け込んでいた東独市民は、東独の交渉人である Vogel弁護士が「東ベルリンの西独代表部のケースと同じく、帰国すれば罪には問わないことが確約され、出国は確約できないが出国申請をちゃんと審査して取り扱う」という説得により250人が帰国することになりましたが、まだ170人は残ったままです。
【1989.9.15 金曜日】
予定されていた西独の社会民主党(SPD)の代表団14人の東独訪問が急遽東独政府側からキャンセルされたというニュースです。それに関して SPDのフォーゲル党首がインタビューに答えています。また、各方面からのリアクションを報じています。
続いて、ソ連の保守派政治家で改革派のゴルバチョフ書記長の政敵であったリガチョフが東独を訪問し、東独政府の方向を支持し、西独のネガティブキャンペーンを批判し、ソ連と東独の友好条約をしっかりと守ると述べています。
次に、東西ドイツの労働組合組織のトップ同士の交流の報告があり、その中で東独の労働組合組織(FDGB:Freie Deutsche Gewerkschafter Bund 自由ドイツ労働組合同盟)の長 Harry Tischは「ハンガリーとの国境を閉ざすつもりはない。現在起こっている脱東は、西独がそそのかしているからだ」と述べています。
アイゼナッハ(マルティン・ルターが新約聖書を訳した町として知られる)で開催されている教会会議で、オープンなメディア政策・デモの自由・自由選挙・どこの国にも旅行や出国できる自由を求めています。また新たな市民運動として Demokratie Jetzt(民主主義を今)を起こし、次回の人民議会選挙に候補者を立てると言っています。
月曜零時のハンガリーによるオーストリアとの国境開放から今日までに、オーストリアの内務省によれば 13,674人が西側に出国し、西独の報道では公式に、ほぼ 15,000人に上るとのこと。
ハンガリーと東独の関係のみならず、チェコスロバキアやルーマニアなどとの関係も悪化しており、ワルシャワ条約機構の崩壊もありうると言っています。
【ちょっと関係ない話ですが・・・】
■ 余談ですが、一つ上の動画のほか、この Tagenschauという、日本でいえば NHKの「7時のニュース的な番組」に頻繁に登場するアナウンサーの Jan Hofer氏は今も現役で、当時から顔を知っている私としては嬉しい限りです。Wikipediaなどで調べると Journalistとあり、日本の NHKのアナウンサーとはステイタスが異なるようです。
【1989.9.16 土曜日】
最初のニュースは西独のコール首相がポーランドを訪問する日程が11月か遅くとも12月初めで調整されているという話です。ポーランドの経済支援をするのは西独単独では不十分で、戦後のマーシャルプランのような枠組みで西側諸国が共同で取り組むべきだと、コール首相の側近 Horst teltschiekが語っています。ポーランドの痩身のマゾビエツキ首相が、ポーランド在住のドイツ系少数民族の権利を拡大することや、ワルシャワの西独大使館に駆け込んだ東独市民の西側への脱出についても前向きに取り組む姿勢を語っています。
CDUの幹部 Dregger氏が、ポーランド・ハンガリーやその他の東欧諸国の改革勢力に、民主化の手法や運営のノウハウを伝授する協力をすると言っています。(社会主義的な国営企業ではなく)自由な私企業の設立や。技術支援、マネージャーの教育などもそれに含まれるようです。(■ 余談ですが、ドイツが統合されて間もなく、国境近くに立地していた私の工場に、旧東独の若者が技術職の求人広告を見てやってきました。電気が専門とのことで幾つか回路図を書いてもらったのですが、西側の規格とは異なる回路図を書いたので、そんなものは世界共通と思い込んでいた私は驚いた記憶があります。西側で通用するためにはそういう教育も必要だったと思います。)
西独 SPDの名誉総裁の Willy Brandtが、東独の危機的状況にコメントしています。原因は東独政府やその機関に対する国民の不信感であり、東独政府に意見の自由などを求めています。その後、西独とオーストリアの国境 Passau/Subenのレポートがあり、これまでに 15,000人が国境を越えてきたと言っています。
ハンガリーのネーメト首相が、国境は開いたまま据え置くと述べたとのことです。東独による批判に対しては、ソ連のゴルバチョフ書記が提唱する「ヨーロッパの家」という概念を引用し「ヨーロッパの家を建設したいと思うならば、その部屋は鉄条網によって他の部屋から隔離されるべきではない」と述べたとのことです。
東独のプロテスタント(Evangelisch)とカトリックの教会会議(Synode)が、東独政府に対し、現状の「脱東者」の波の原因を取り除き、緊急に無条件でメディア政策の改革・自由選挙・旅行の自由・経済改革などを行うように要求しています。教会会議が求めることは政府に対し「お願いベース」ではなく「要求せざるを得ない」ということで、内容自体は目新しいものではないものの、こういう最後通牒のような厳しい論調は従来はなかったことだということです。
最後の部分は、東独の実質的な独裁政党 SED(社会主義統一党)の他に、いくつか存在した翼賛政党のひとつである東独の CDUも政府に改革を求めています。ここにその後、ベルリンの壁崩壊後、統一されるまで存在した東独の首相となる Lother de Meziereも映っています(右から二人目の、細身で眼鏡の人)。
ベルリンの壁崩壊まであと60日を切りました。東独政府はなんだか苦しいよなあ・・・という感じですが、まだ壁が崩壊するという兆候までは感じられません。
三十年前のドイツ(23):東独国歌 Die National Hymne der DDRに続きます