誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(64):★★アイゼンヒュッテンシュタット Eisenhüttenstadt-1-

ブランデンブルク州のアイゼンヒュッテンシュタット(Eisenhüttenstadt)をご紹介します。

木組みの家並みが残る旧市街や、歴史的な城壁・城門や、かつての侯爵の城館や、修道院や・・・そんなものは一切存在しない町で、所謂観光のターゲットではなく、ツアーの日程に組み込まれることもないので大方の皆さんにとっては聞いたことのない町だろうと思われます。が、廃墟にもマニアが居るように(笑)特定の分野に関心を持つ人達にとっては結構知られた町だろうと思います。私にとってはまさに「好物ド真ん中」というところです(笑)ということで非知名度は★★としておきます・・・ちょっと甘いかな(笑)

ちなみに、私には特段の廃墟趣味はありませんが、私が集中的に訪問している旧東独の地方都市は統一以降、産業の衰退や人口流出が続き結果として廃墟やその寸前の建物はかなり多いという事実はあります(笑)

場所はベルリンの東南東約 100km、オーデル川沿いでポーランドとの国境にほど近いところです。

Wappen Lage Data

独語 Wikipedia
自治体の公式サイト
ニュータウンに関するサイト

最初に種明かしというか、私がハマるツボというか・・・ポイントを纏めておきましょう。この町は戦後に実質的にゼロから創り上げられた新興計画都市であり、ソ連の支配下にあったためにその都市建設は社会主義の理想都市の思想に沿った様式で統一されているのです。

こういう事例は他にも散見され(一例を挙げればブルガリアのディミトロヴグラト)、またドイツでも、マクデブルク、ドレスデン、ベルリンのスターリンアレー、ノイブランデンブルクなどもその部類ですがいずれも町の一部あるいは戦災で破壊された街区の復興の一環であり、町ごと更地から社会主義様式で都市造りをした事例は他に例を見ません。というわけで、この町を歩くとその異質さ・異様さに背筋がゾクッとする興奮を覚えるのです。

これは Eisenhüttenstadtに関する 1967年の東独のドキュメンタリー番組の一部ですが、1936年(戦前)は西独となった地域と東独となった地域の、人口ひとり当たりの「工業生産・粗鋼生産・石炭産出量」の比較です。工業生産自体はむしろ後の東独地域の方が多かったのに、それを支える粗鋼・石炭は(ルール地方が西独となってしまったので)比較にならないくらい少ない・・・ということを示しています。

Von Bundesarchiv, Bild 183-09117-005 / Sturm, Horst / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, ソースはこちら

そこで「1950年 7月 20日から 24日にかけて開催された SED(社会主義統一党:東独の支配政党)第3回党大会で、フュルステンベルク(オーデル)近郊に製鉄所「アイゼンヒュッテンコンビナート・オスト(EKO)」と社会主義住宅都市を建設することが決定された。新しい住宅都市は、「都市計画の16原則」に従い、社会主義古典主義の建築様式で建設されることになっていた(ドイツ初の社会主義都市)」

1951年 1月 1日、フリッツ・ゼルブマン大臣が最初の高炉の礎石を築き、1951年 9月 19日に操業を開始した。1955年までにさらに 5つの高炉が建設された。1953年 2月 1日、住宅都市は独立した都市地区としてフュルステンベルク地区から分離され、スターリンの死を記念して 1953年 5月 7日にシュターリンシュタットと改名された(その後、非スターリン化の流れの中で 1961年 11月 13日にアイゼンヒュッテンシュタットと改名)。当初はカール・マルクスの没後 70周年にちなんでカール・マルクスシュタットと命名される予定だったが、それはケムニッツに与えられた。1953年末の人口は 2,400人であったが、1960年には 24,372人となった」(独語 Wikipedia)という経緯があるのです。

Von Bundesarchiv, Bild 183-75141-0002 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, ソースはこちら

建設途上の画像をいくつかこちらのサイトから借用しておきます。

これが今日も手つかずでそのまま残っている・・・そりゃあワクワク・ゾクゾクするじゃありませんか(笑)

★★アイゼンヒュッテンシュタット Eisenhüttenstadt -2- に続きます

関連記事

ページ上部へ戻る