誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(64):★★アイゼンヒュッテンシュタット Eisenhüttenstadt -2-

★★アイゼンヒュッテンシュタット Eisenhüttenstadt -1- からの続きです

まず最初に 1992年の春、私が2度目の駐在から帰国前に初めてこの町に立ち寄った時の写真をアップします。1990年 10月 3日に東西ドイツが統一を果し、崩壊直前だった旧東独地域の産業・インフラ・住居などの復興がまさに始まろうとしていた時期でした。私としては西側と同じように綺麗にリノベーションされてしまう前に、旧東独の面影を記憶・記録に留めようと精力的にドライブしていたのです。

↑↑ ここは Strasse der Repblik(共和国通り)というメイン通りです。手前に直角に交差している大通りは Karl-Marx-Strasse(カール・マルクス通り)で、いずれも旧東独にはよくある通りの名前です。通りの入り口のところに左右対称に少し大きめの建物があり、そこからまた通りに沿って中層住宅が続いています。

この感じ、どこかで見たことあるよな~・・・と考えていたら、ここですね!(東)ベルリンのカール・マルクス・アレー(Karl-Marx-Allee)を東側の Ftankfurter Torから見たところです。勿論規模は異なりますが、こういう街造りというのも社会主義様式の一部なのでしょう。

ここは上の地点から少し進んだところです。クララ・ツェトキンClara Zetkinの名を冠した通りの名前が見えます。社会主義の立場による女性解放運動を主導し、女性解放運動の母と呼ばれた人です。

Strasse der Repblikを右に折れて(Clara-Zetkin-Ringから見て Strasse der Repblikの向かい側)中層アパート群の中に入ってみたところです。

当時私が住んでいた西独には見られない様式のマンション群が連なり、外壁は土色、更に(これは今更驚く話では無かったのですが)窓枠や建材がかなり傷んでいたことや、街灯の支柱のコンクリートがかなり品質の粗悪なものが使われている・・・そんなことが衝撃的でした。

にも拘わらず、建物の様式にどこか統一された設計思想を感じたものです。右は建物の入り口部分ですが、ドイツの戦前からあるアパートとは明らかに異なった印象の装飾で・・・はあ、これが社会主義古典様式というやつなのかな、ロシアというかソ連はこういうイメージなんだろうか?と感じたものです。

上の左は、そのあたりにあった建物の壁に埋め込まれた壁画です。ちょっと判り辛いかもしれませんが、下に修復された最近の画像があります。様々な職種の労働者の姿を描いたものです。上の写真では壁の漆喰が一部剥げ落ちていますが、下の写真ではそれも修復されているのがわかります。

また頂上に赤い星のついた慰霊塔は Platz des Gedenkens(追悼広場)という名前の付いた場所にあるもので、戦没ソ連兵士の慰霊塔です。これは 1951年の町の建設当時の写真にも写っています(下)またこれは、戦没ソ連兵士の集団墓地が製鉄所建設予定地にあったので、その遺骨をこちらに移して新たにこの慰霊塔を建てたという経緯のようです。

いかがでしょう?西独ではまず見ることのなかったこういう社会主義時代の名残が一つの町に集中して存在しているのを見た時の衝撃・・・ケルンの駅前にある巨大な大聖堂やローテンブルクの木組みの家並みを見た時の感動とはちょっと異質な衝撃!お分かりいただけるでしょうか?

あ、無理にお分かりいただかなくても結構です。所詮はちょっと変態チックなオタク趣味なので(笑)さて、この時は車で通りがかり、そこらへんに駐車して何枚かの写真を撮ってすぐに移動してしまいました。でも、ここにはいつかまた来るぞ!・・・そんな想いを抱き続けて 30年!ついに 2022年にここを再訪する機会が訪れたのです。

ずっと気になっていることは全部やる!伏線は回収する!・・・そんな歳になったんでしょう(笑)想い続ければ必ず叶う・・・あ、大抵のことはね(笑)叶わない方がいいこともあります・・・多分(爆)

次回からは 2022年に訪問した時の写真とアップデートした情報をご紹介します。

★★アイゼンヒュッテンシュタット Eisenhüttenstadt -3- に続きます

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