三十年前のドイツ(29):1989年10月上旬の状況

いよいよ10月にはいります。今にして思えば11月9日のベルリンの壁崩壊の40日ほど前ということなのですが、少なくとも現象面ではまだまだ直ちにそういうことが起こるとは思えない状況です。

10月7日に東独は1949年の建国から数えて40周年を迎えます。社会主義国の盟主として、ソ連の元首ゴルバチョフ書記長を招くなど重要な記念行事を前にして、国内の騒動を極力抑え込みたい意図があります。

しかし一方で、当面の人道的措置としてプラハとワルシャワ大使館に立て籠っていた東独市民の西独への出国を許可した後も、再びそれに続けとばかりにプラハとワルシャワの西独大使館には東独市民が駆け込みを続けます。ついに東独政府は、社会主義友好隣国としてのチェコスロバキアへの自由な出国を制限する措置に踏み込むことになり、それがまた国民の一層の反発を呼びます。

これと並行して、東独政府執行部への批判は様々な形で顕在化していきます。東独は SED(Sozialistische Einheitspartei Deutschlands:社会主義統一党)の一党独裁と誤解されがちですが、形式的な多党制に見せかけるため「翼賛政党:Blockpartei」というのがいくつかありました。まあ「御用政党」です。その中のひとつ LDPD(敢えて訳せば「自由民主党」(笑))の党首 Gerlachが「もうちょっとやりようがあるのではないの?」と東独政府をやんわり批判します。彼は単に翼賛政党の党首というだけでなく、国家の代表組織のメンバーでもあったので、その意味するところはそれなりのインパクトがありました。

そして、更に大きな意味を持ったのは東独各地、なかんずくライプツィヒで起こった「月曜デモ:Montagsdemonstration」です。以前からあった夕方の「月曜の祈り:Montagsgebet」のあと、そこに集まった市民が街頭に出て「自由な選挙」「自由な出国」「秘密警察の排除」・・・そういう標語を掲げてデモを始めたのです。

東独政府体制側としては、建国40周年記念式典までは騒動を起こさないように、なんとか抑え込もうと秘密警察や機動隊などを動員して、穏便にと抑え込みを図ります。

社会主義の用語として「人民」というのがあります。中華「人民」共和国・・・旧東独のドイツ語ではこれに das Volkという単語を当てます。和訳では「国民車」という訳語があてられることの多い Volkswagenの Volkです。旧東独の警察は Volkspolizei(人民警察)という名称でした。

そしてこのころ、街頭デモに「Wir sind das Volk」という標語が登場します。Volkspolizeiとかなんとか、いいけどさ、「俺たちこそ Volkなんだぜ!」という主張が込められた、極めて明快な標語です。

(この項、後日補足・加筆予定です)

【1989.10.1 日曜日】

【1989.10.2 月曜日】

【1989.10.3 火曜日】

【1989.10.4 水曜日】

【1989.10.5 木曜日】

【1989.10.6 金曜日】

【1989.10.7 土曜日】

【1989.10.7 土曜日 東独40周年記念イベント】

【1989.10.8 日曜日】

【1989.10.9 月曜日】

三十年前のドイツ(30):1989年10月上旬~中旬の状況に続きます

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