2022年 5~6月ドイツ放浪記(概要)

2022年 5月 18日に英国からドイツに入り、仕事でコンファレンスに参加した後に、20日から 6月 5日に帰国便に乗るまでの約 2週間、ドイツを鉄道で放浪しておりました。Hamburg、Lüneburg、Erfurt、Dresden、Berlinあたりは皆さんもよくご存知かと思いますが、それ以外はかなりニッチな場所ばかりです。まあ「誰も知らないドイツの町」シリーズのネタ拾いに行ったという側面もあるので(笑)

一応の軸としては、1871年に成立した「ドイツ帝国(Deutsches Reich)」を構成する連邦諸国(Bundesländer)の首都を完全制覇するという目標を立て、それは今回で達成しました!ドイツ帝国というと強大な中央集権国家を想像しがちですが、実際にはプロイセン国王をドイツ皇帝として戴く連邦国家で、各領邦国家の歴史や独自性はそれなりに維持確保されていたと考えられます。その諸国の首都だった町が今日どうなっているのか興味が有ったのです。というより、それを全て訪問して完全制覇することに興味が有ったのかも知れません(笑)

他にはもう種々雑多な私の関心事で「煉瓦造りのゴシック(Backsteingotik)」「国境の町」「社会主義建築」「狭軌鉄道の蒸気機関車」「旧東独の痕跡探し(Spurensuche)」等など・・・下に下車した駅の駅名標を並べておきましたが「なんでこんなところに行ったの?」という疑問に、簡単なメモを記してあります。詳しくは「誰も知らないドイツの町」シリーズでご紹介していきます。

駅名・地名 解説 人口
20.MAI (Fr.) Leverkusen -> Bad Arolsen ( Übernachtung )
いきなりバート・アーロルゼンなんていう「非知名度★★★」クラスの町から放浪が始まります(笑)どこだ、それ?カッセルから鉄道で約1時間くらい、直線距離なら西に約 30kmくらいのところにあります。何故ここへ?ここはかつてのヴァルデック侯国の首都だったのです。今は人口 15千人位の静かな田舎町ですが、立派なお城が残っています。え?ヴァルデック侯国なんてあったっけ?・・・その辺は別途ご紹介していきます(笑) 15,571
21.MAI (Sa.) Bad Arolsen ->Lüneburg (Übernachtung 1)
ここは私がかつて駐在員として 7年暮らした町です。今でもドイツに行くと素通りし辛い町です(笑)今回も、当時市の開発局長で、この町に工場進出した我々駐在員の面倒を見てくれた旧友と一献酌み交わしてきました。1906年から続いている馴染みの居酒屋「Nolte」や、日本メシ屋の無い町での駐在員のお気に入りだったイタメシ屋「La Grotta」が今も元気なのは嬉しい次第です。
22.MAI (So.) Lüneburg -> Hamburg -> Lüneburg (Übernachtung 2)
ここは「誰でも知ってるドイツの町」ですが、私にとっては初めて駐在したドイツの町なのです。かつてのドイツ人同僚達の何人かは旅立ちましたが、コアメンバーは今も元気で facebookで繋がっています。とはいえ若手の駆け出し駐在員だった私の先輩・上司だった同僚達はもう 80歳前後になっており、会えるうちに会っておこうという思いで、私が来ることをダシに皆が集まってくれました。
23.MAI (Mo.) Lüneburg ->Erfurt ->Sondershausen ->Sömmerda ->Erfurt(Übernachtung 1)
さて、ここから本格的に「誰も知らない(かもしれない(笑))ドイツの町」の探訪が始まります。ゾンダースハウゼン?何があるの?シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国の首都だった町です。お城もしっかり遺っており、かつては城下町として賑わっていたんでしょうねえ!こういう町を訪れると疼くんです。自分がこの町の「マーケティング・マネージャー」だったら、どうやって町を活性化するんだろうって? 20,885
ここは特段の目的は無かったんです。ただ拠点とした Erfurtから Sondershausenを往復して、晩飯までまだ時間が有ったので、思い付きで電車で 20分の距離にあるこの町に行って「行ったことのある町」のカウントを稼ぎたい・・・くらいな不純な動機です(笑)ただ、独語Wikipediaにあった「Die Stadt blieb im Zweiten Weltkrieg unversehrt.(第二次世界大戦中も、この街は無傷だった)・・・これは私にとっては殺し文句でしたね(笑)さて・・・大戦では破壊されなかったとのことですが・・・どうなのよ? 18,717
ここも「非知名度」ランクでは★はゼロでしょう。町の読み方は「エアフルト」というのが近いですが「エルフルト綱領」なんて言葉に胸がキュンとなる年代の方もおられるのでは?私はギリギリそこと次世代の境界に居ました。旧東独の町としては素晴らしい復興を遂げています。今回の私にとっては、周辺のマイナーな町にアクセスがいい拠点として 3泊しました。もう何度も訪問しているので、さほど町の探検はしなかったです。 213,692
24.MAI (Di.) Erfurt ->Rudolstadt ->Saalfeld ->Erfurt(Übernachtung 2)
ルードルシュタット・・・聞いたことないですよね(笑)シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国の首都だった町です。上に出てきたシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国と縁戚関係にあった家系の居城が遺っています。ゾンダースハウゼンと人口は 4,000人くらい多いだけなのに、こちらの方が活気があるように感じます。ゲーテの相棒のシラーがこの町に度々滞在したようで、その博物館もありますが・・・それだけでこんなに差が付くものなのかな? 24,450
1680-1745年に存在したザクセン=ザールフェルト公国の首都が置かれた町です・・・とか、サラッと書いていますが、ヴェッティン家のエルンスト系の家系・分割相続で「ザクセン=なんちゃら」という公国が山ほど登場するのには閉口します・・・とても覚えきれん(笑)ただ、私がここに来たかったのは別の理由がありまして・・・Hanns Hoppという、恐らく日本では殆ど知られていない建築家が設計した病院の建物を見たかったのです。 28,772
25.MAI (Mi.) Erfurt ->Zerbst ->Roßlau ->Dessau >Wolfen ->Erfurt(Übernachtung 3)
アスカニア家の分家のアンハルト=ツェルプスト侯国の首都だった町です。これもサラッと書いちゃってますが、アスカニア家も分割相続・領土分割・併合を繰り返してワケが分からんです(笑)飛び地も一杯できちゃうし・・・ここはドイツ帝国成立時には構成諸国の首都ではなかったので訪問優先度は低いのですが、どこかで見たお城の廃墟の写真に心惹かれるものがあり来てみました。お城もそうですが、町も凄いことになっていました。 21,234
隣町のデッサウと併合され Dessau-Roßlauという自治体を形成していますが、Roßlau自体は Dessauと比べるとかなり小規模な枯れた町です。街並みや建物の様子からは戦災を免れたと見えますが、旧東独の経済事情と、東西統一後も町の修復予算の優先度が低かったのか、ドライフラワーのように枯れた感じです。私好みかも(笑) 13,849
デッサウにはもう何回も、少なくとも5回は訪れています。が、5回すべて例のバウハウスの建物を見に行き、駅の反対側にある街の中心部には行ったことが無かったので、今回はそちらを攻めてみました。ここもアンハルト=デッサウ侯国の首都が置かれた町ですが、爆撃被害都市鑑定士(笑)の私から見れば、かなりの被害を被ったことが明らかです。新しいバウハウス博物館があります。 64.882
隣町の Bitterfeldに併合され、現在は Bitterfeld-Wolfenという町の一部となっています。写真化学会社で、カラーフィルムのアグファカラーを開発したアグファ発祥の地です。戦後、旧東独に組み込まれ商標を「ORWO(ORiginal WOlfen」として製品を販売していました。Chemieparkと呼ばれる一帯は旧東独の公害の象徴とされていましたが、私の前職の上司が ORWOへの技術供与に関与していたこともあり一度は訪問してみたかった町です。非常に特徴的なラートハウスの建物があります。 16,449
26.MAI (Do.) Erfurt ->Greiz ->Bad Köstritz ->Gera(Übernachtung)
ロイス=グライツ侯国の首都だった町です。兄系ロイス侯家によって統治されたため、兄系ロイス侯国(独: Fürstentum Reuß älterer Linie)とも呼ばれます。ここも戦災を免れたと見えて、町の勢いがピークだった時の立派な建物や、旧市街と山の上の2つのお城が遺っています。また綺麗に修復はされていますが、人口はピークだった戦後直ぐの 45,000人の半分以下になっており、やはりドライフラワー感は否めません。 20,021
人口は 3,000人強の小さな町ですが、Köstritzerというブランドの黒ビールで有名です。私が訪問した日は Himmerfahrt(ヒンメルファールト:昇天祭)という祝日ですが、Herrentag(オトコの日)とも呼ばれ、年に一度オトコどもが酔っぱらってハメを外しても許されるという伝統?があります。ということで、醸造所横のレストランはオッサン達で大賑わいでした(笑) 3,389
ロイス=ゲーラ侯国の首都だった町です。弟系ロイス侯家によって統治されたため、弟系ロイス侯国(独: Fürstentum Reuß jüngerer Linie)とも呼ばれます。もう一つの分家のロイス=グライツ侯国の首都だったグライツと比べ町のサイズは数倍あります。 91,368
27.MAI (Fr.) Gera ->Zittau(Oybin) ->Ostritz ->Görlitz(Übernachtung)
ドイツ・チェコ・ポーランドの Dreilandereck(三国国境点)の町として知る人ぞ知る Zittauには以前行ったことがあるので、今回は街歩きではなく、ここから出ている狭軌鉄道(Zittauer Schmalspurbahn)のに乗るのが目的です。ザクセンには保存鉄道がいくつか有り、蒸気機関車が現役で活躍しています。 24,738
ポーランド語の駅名標です。行きたい場所は Ostritzという町にある修道院なのですが、このあたりの路線は国境のナイセ川を何度も横切っており、たまたまこの修道院への最寄り駅は現在のポーランド領にあるのです。鉄道を敷設した当時はドイツ帝国のプロイセン王国オーバーラウジッツ地方であり、まさか将来ナイセ川がポーランドとの国境になるとは思いもしなかったのでしょう。 2,215
ゲルリッツにはもう何度も来ているので、今回はこの周辺を巡るための拠点として泊りました。没落寸前の多くの旧東独の町とは様相が異なり、多くの観光客で賑わっています。町自体大変美しいですが、戦前は町の半分だったポーランド側の「Zgorzelec」にもパスポート無しで自由に歩いていくことができ、いろいろな意味で興味深くお勧めの町です。 55,784
28.MAI (Sa.) Görlitz->Niesky ->Löbbau ->Bautzen ->Dresden(Übernachtung 1)
ここは特段の目的が有ったわけではありません。泊っていたゲルリッツからローカル線で 20分程と近く、地名がなんとなく気になったので行ってみた次第です。ある意味、典型的な旧東独の小さな町という様相です。 9,198
ここもある意味、旧東独の小さな町の典型かもしれません。何が典型的なのかは別途記事の中で書いていきます。1346年から 1815年まで続いた由緒ある六都市同盟(Oberlausitzer Sechsstädtebund)の一つですが、今日の在り様はゲルリッツやバウツェンとかなり差がついているようです。しかしながら、一つ拾い物の建築物を見つけました! 14,347
ソルブ語というスラブ系の少数言語が存在する Oberlausitzという一帯ですが、ここは特に有名な町で、通りの名前や公共施設はドイツ語との二言語表記がされています。もうひとつ、ここには旧東独時代に国家保安省(シュタージ:Stasi)の監獄が有ったことで知られています。町中のルネサンス様式の破風を持つ建物の裏手がそれで、今日は犠牲者追悼の場所となっています。 38,006
特段の解説は不要と思います。何度も来ているので、今回は街歩きではなく、周辺都市へのアクセス拠点として駅近のホテルに泊まりました。旧東独時代にはインターホテルだった建物で、普通の高層ビルですが、外壁に施された凹凸が特徴的です。 556.227
29.MAI (So.) Dresden ->Praha ->Meißen ->Dresden(Übernachtung 2)
プラハにも何度も来ているので街歩きではなく、プラハに住む友人 Andrejに会いに来ました。社会主義時代の東側諸国のインターナショナルスクールの同級生だったウクライナ女性 Olhaさんを自宅に預かって保護しています。皆様から頂いた寄付に大変感謝していました。もう一人の同級生のロシア女性 Yuliaさんを含めて4人でチェコビールを楽しみました。ドレスデンからプラハは列車で 2時間半くらいなので十分日帰りが可能です。
プラハからドレスデンに戻っても夏時間でまだ明るいので、ホテルに戻らずマイセンまで足を伸ばしてみました。電車で 20分くらいで Altstadt駅で降りると旧市街までは直ぐです。陶磁器であまりにも有名な町ですが、ワインの産地でもあります。 28.281
30.MAI (Mo.) Dresden ->Radebeul Ost ->Pirna -> Berlin (Übernachtung 1)
実は昨夕、ドレスデンからマイセンに行く途中で Radebeul-Ost駅に狭軌鉄道の蒸気機関車を見かけたので乗りに来てみました。ザクセンはかつてドイツ最大の狭軌鉄道網を有し、今日でもかなりの数が観光・日常用鉄道として保存されています。ここのは Lößnitzgrundbahnという名称で、途中の Moritzburgには有名なお城があります。(後で気が付いた!しまった!(苦笑))
ドレスデンからエルベ川に沿って鉄道で 20分くらいのところにある町です。町は綺麗にリノベーションされ、ドレスデンから近いこともあって多くの観光客を集めて賑わっています。「ザクセンのスイス:Sächsische Schweiz」と呼ばれるエルベ川渓谷の景勝地への入り口にもあたります。また旧東独に関する博物館がありますが、訪問した日は休館日でした(ツイてない(笑)) 38,284
ベルリンには 6泊しました。展示会視察・友人の 70歳の誕生パーティ・周辺の町巡り及び帰国準備の PCR検査などいろいろなことをやりましたが、諸般のアクセスとコストを考えて環状線(Ring)の Gesundbrunnen駅の近くのホテルにしました。環状線には 3時・6時・9時の位置にそれぞれ Ostkreuz・Südkreuz・Westkreuzという駅があり、環状線とその他の路線が交差していますが、12時の位置にある駅は何故か Nordkreuzではなく Gesundbrunnenという名称です。外国人が多い印象ですが、特段治安が悪い印象はありません。
31.MAI (Di.) Berlin:Veranstaltung (Übernachtung 2)
終日展示会です。Westkreuzから一駅の Messe Südにある展示会場です。ドイツや欧州各国では大規模展示会がマスクやワクチン接種などの制約無く再開しています。
1.JUNI (Mi.) Berlin:Veranstaltung (Übernachtung 3)
この日も展示会でした。夕刻からは「プレンツラウアー・ベルク:Prenzlauer Berg」と呼ばれるおしゃれな一角で、展示会で出会った業界の知人とビヤガーデンや食事を楽しみました。この一角、結構お勧めです。
2.JUNI (Do.) Berlin ->Guben ->Neuzelle ->Eisenhüttenstadt >Berlin (Übernachtung 4)
ここはポーランドとの国境の町でオーデル川で東西に分かれ、ポーランド側は Gubinという地名なので元は同じ町だったのでしょう。そういう意味では「ゲルルッツ:Görlitz」がナイセ川で分断され、ポーランド側が「ズコレジェッツ:Zgorzelec」となったのと同じ構図ですが、町の規模はかなり小さいです。国境検問は廃止されパスポート無しで往来することができます。 16.656
ここには修道院がありますが、むしろ修道院ビールで知られています。1990年に訪問した時は、修道院は廃墟寸前でしたが綺麗にリノベーションされています。当時からビールは売られており、同じレストランで飲むことができます。 4,290
この町にも2度来たことはあるのですが、他のドイツの町とは全く様相が異なります。戦後の復興期に新たに製鉄所を建設する際に、労働者の住む町もセットにして建設したのです。建物の様式は当時のソビエト社会主義建築様式で、ちょっとゾクッっとするものを感じます。「僕たちは希望という名の列車に乗った:原題 Das schweigende Klassenzimmer」という映画の舞台になったところでもあります。原題はケストナーの「飛ぶ教室:Das fliegende Klassenzimmer」のオマージュです。 23,373
3.JUNI (Fr.) Berlin ->Waren ->Neustrelitz ->Gransee >Berlin (Übernachtung 5)
この日は早朝から、日本帰国の向けて PCR検査を受けるためベルリン・ブランデンブルク空港(BER)に出かけました。開港まで紆余曲折があり予定から何年も遅れた経緯があります。首都の空港ということでもっと大規模なのかと思っていたら、ドイツはフランクフルトがハブになっているので、ローカル空港という感じです。
PCR検査の後は一転ベルリンの北東方面に向かいます。Warenはメクレンブルク湖沼群の Müritzer Seeの湖畔にある町で、旧東独時代から保養地・観光地として賑わっていました。当時有った大規模な労働組合ホテルは解体されましたが(多分アスベスト問題)、町は綺麗にリノベーションされ新しいホテルも多数建てられ、観光客で賑わっています。 21.147
さて今回の目標の一つ「ドイツ帝国構成諸国の首都巡り」はここで完結します。メクレンブルクの分家であるメクレンブルク=ストレーリッツの居城が有った町ですが、お城は残念ながら戦災で破壊されてしまい残ってはいません。が、町の大半は残っており綺麗にリノベーションされてレジデンツシュタット(領主・諸侯の居城のある町)としての品を保っています。 20,151
人口 5,000人強の小さな町で観光客がわざわざ行くような町でもないため枯れた印象ですが、それでも私にとっては3つの大きな関心アイテムがある町です。ひとつはプロイセン王のフリードリッヒ・ヴィルヘルム3世の妻で、ドイツ帝国初代皇帝ヴィルヘルム1世の母である「ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ:(正式には)Luise Auguste Wilhelmine Amalie Herzogin zu Mecklenburg-Strelitz」王妃の廟があること。これは建築家シンケルの設計です。二つ目は煉瓦造りのゴシック様式(Bacjsteingotik)の城門があることです。そして三つめは Theodor Fontaneの紀行文「放浪記:Wanderungen」に描かれたことで・・・こちらは原文を読んでから、また再訪したいと思っています。 5,849
4.JUNI (Sa.) Berlinn:Veranstaltung (Übernachtung 6)
この日はベルリンに住むドイツ人の友人の 70歳の誕生パーティに招かれ、旧東独時代の国会議事堂に相当する共和国宮殿(Palast der Republik)がアスベスト問題で解体された後に、その前に爆破解体されていた宮殿(Stadtpalast)が見事に再建されたののを見学し、さらにそれが見える高級ホテル「Hotel Rome」のテラスでの宴席を楽しみました。
5.JUNI (So.) Berlin ->Neuruppin ->Berlin Flughaven BER
さて今回の旅の最後の訪問地です。ベルリンからフランクフルト行の便は午後なので午前中に「ノイルッピン」まで行ってきました。作家 Theodor Fontaneや建築家カール・フリードリッヒ・シンケル(Karl Friedrich Schinkel)の生誕地です。1787年に大火があり、それを再建する際に町の大改造を行ったため、計画都市特有の人工的な感じが漂います・・・が、ソ連風の計画都市 Eisenhüttenstadtとは全く別の趣です。 30,764

以上、約 2週間に亘り、主として旧東独の殆ど知られていない(であろう)町を巡りました。大抵の駅は旧市街から 1kmや 2kmも離れたところにあるため 2週間で 200km以上歩いて、足の裏の皮が剥けて結構痛い思いもしました(笑)なかなか一言では感想を纏めることは出来ませんが、人口 100,000人以上の町はなんとか町として機能していますが、人口 50,000人以下の町は「まだら模様」・・・観光資源に恵まれたところや、有力な大都市から近いなどの立地条件に恵まれた町と、そうではない町に明らかに差がついている感じです。

第二次大戦での爆撃・砲撃による破壊に加え、旧東独末期の経済的苦境による補修資材不足・放置という二重苦で、東西ドイツ統合の瞬間には町は物理的にも崩壊寸前だたっところから、その後の40年で少なくとも外観は綺麗に修復されています。それを軸に経済も回っているところと、逆に人気(ひとけ)が殆ど感じられないところとに分かれていったようです。

因果関係はさておき、現象面でひとつ典型的なのは、後者の町には「居酒屋」が見当たらないことです。居酒屋で呑むというのは、あるレベル以上の経済的・精神的余裕がなせる業・・・ということなのでしょう。居酒屋が絶滅してしまった町はあと二十年もするとどういうことになってしまうのでしょうか?

個々の町については「誰も知らないドイツの町シリーズ」でご紹介していきます。

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