誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(35):★シュヴェリーン Schwerin -4-

★シュヴェリーン Schwerin -3- からの続きです

まずはホテルを出て街歩きを始めます。ホテルの前にある小さな湖「プファッフェンタイヒ(Pfaffenteich)」とお城がある島の間が旧市街の主な場所で、単に歩いて写真を撮るだけなら1時間もあれば回れてしまいます。1990年に初めて訪れた時に見た建物がどうなっているかを確かめようと思うのですが、30年の間にかなり修復されて、なかなか簡単には見つからないものですね。

↓↓ ホテルの前からプファッフェンタイヒ越しに旧市街が見えます。遠景に Domが見えます。

↓↓ プファッフェンタイヒを巡る小さな遊覧船・・・のように見えますが・・・

↓↓ 実際には公共交通機関で、プファッフェンタイヒある4つの船着き場を巡回しています。大人 €2-、子供 €1-です。

↓↓ 州の内務省(Ministerium für Inneres und Europa des Landes Mecklenburg-Vorpommern)として使われている建物です。

この建物はかつて「武器庫(兵器廠)Arsenal」として建てられたもので、独語 Wikipediaには「大公の武器庫(アーセナル)は、1840年から 1844年にかけて、宮廷建築家ゲオルク・アドルフ・デムラーの設計に基づき、ヘルマン・ヴィレブランドとゴットリーブ・ルージュの監督のもと、シュヴェリンのプファフェンテイヒ池の南西岸に建設された。当時、シュヴェリンにレジデンツ(領主の居館のある町)としての特徴を与えるための最大の建築プロジェクトの一つであった。約 600万個のレンガと屋根瓦は、Kaninchenwerderと Ziegelwerderの島と、Schelffeld(Schwerin district – Schelfwerder)にあるレンガ工場から供給された。建物の建設費は 13万 4,000ターラー。

最初は武器庫として使用され、第一次世界大戦後は警察の兵舎として使用された。第三帝国時代には「アドルフ・ヒトラー・バラックス」と呼ばれていた。1945年から 1947年 7月までは、難民(東部から追放されてきたドイツ人)の宿舎として使われていた。その後、この建物は、ドイツ人民警察(BDVP)の地区当局の所在地となった。

1990年以降、アーセナルは内務省の所在地となっている。同時に、1828年に建設されたヴィスマルシェ・シュトラーセ 133番地の建物(1878年からは軍病院または駐屯地病院、1978年からは地方裁判所、1919年からは緊急住宅または人々の福祉、1948年頃以降は地方裁判所として使用)も複合建築物に組み込まれた。どちらの建物も 1991年以降に建て替えや改修が行われ、現在の色になった。」とあります。

1990年には白く塗装されていました(クリックすると拡大します)

↑↑ これも 1990年、白く塗られていた時代の同じ建物を撮った写真ですが、遠景に教会らしきものと、その左手にちょっと特徴的な建物が写っています。この写真を撮った頃は気が付かなかったのですが・・・改めて細かく見てみるものですね(笑)
↓↓ これは Domから撮った写真(Wikipediaからの借用)ですが、件の建物の裏手に教会と、その建物があるのが分かります。教会はこちら(Paulskirche)です。

Schwerin Paulsstadt Arsenal Paulskirche 2007-11-04.jpg
Von Niteshift – Selbst fotografiert, CC BY-SA 3.0, Link

そして、あの特徴的な外観の建物は「Perzinahaus」と呼ばれるものです。独語 Wikipediaの解説を訳しておきます。

1871年にシュヴェリンに設立されたピアノ工場 Gebr.Perzinaのために、宮廷石工の巨匠 Ludwig Cleweの設計に従って建てられた、歴史的な鉄筋コンクリート造りの5階建てのスケルトンビルである。

ファサードは重厚なネオロマネスク様式で特徴づけられている。階段、前庭、ホールの明るく広々とした部屋には、エンパイア・スタイルの家具が置かれ、リビングエリアにはアール・ヌーヴォーの要素が用いられている。

1階には展示・販売室がありった。1階には、450席の音響効果の高い 2階建てのペルツィナホールがあり、数十年にわたりコンサートやイベントホールとして利用されてきた。 作曲家、ピアニスト、指揮者のマックス・レーガー教授、マジシャンで「魔法物理学者」のヨアヒム・ベッラキーニ、作家で広報担当のアレクサンダー・ローダローダ、ピアニストのマリア・アヴァニ・カレラス、ピアノ教師のアルフレッド・ホーエンなど、国内外の著名なアーティストが出演した。シュヴェリンの宮廷音楽家ベルナルド・サミュエルズが発明した調音器アエロフォアや、ヤンコーのキーボードは、当時の専門家たちの関心を集めていた。 3階と 4階には、ゆったりとしたデザインの表現室や居間があった。召使は屋根裏に住んでいた。

ヴィスマルシェン通りでは 1928年頃までピアノが製造されていた。 強制競売の後、この建物にはエルンスト・シュテュルツェンベルガーの自動車販売店と工房、ニーハウスのマットレスと椅子張りの工場が短期間入居していた。1933年、NSDAPの『Niederdeutscher Beobachter』がこの家を引き継いだ。

第二次世界大戦終了後は、Landesdruckereiと Volkszeitungの拠点となり、1945年 9月からは Volksstimme、1946年から 1952年までは Landeszeitung(地方新聞)の拠点となった。1952年 8月 15日、シュヴェリン・フォルクスツァイトゥングの初版がここで発行された。 ペルツィナホールは、再びコンサートや朗読会、演劇などに使用された。1950年代にファサードが再建されて以来、大きなショップウィンドウと 2つの大きなロゼットウィンドウはレンガで覆われている。1982年、SVZはドリーシュにある新しい出版社の建物に移転した。

1984年からは、シュヴェリン市立図書館がこの建物を使用していた。

Stadtbibliothek Schwerin.JPG
By Tmv23 – Own work, CC BY-SA 3.0, Link

↑↑ ↓↓ いずれも補修前の画像と思われますが、下の写真では「BIBLIOTHEK」の文字看板が撤去されています

Schwerin am 25.2.2018 152.jpg
By Christian Alexander Tietgen – Own work, CC BY 4.0, Link

ペルツィーナホールは現在、読書会やイベントホールになっている。リニューアルの際、1階への螺旋階段が設置された。2013年、図書館はKlöresgang 3に移転した。市営住宅の売却は成功しなかった。2016年に決定した文化的用途のための再開発は失敗に終わった。現在、市は国の援助を受けて、この建物を若い起業家のためのイノベーションセンターに転換したいと考えている。

ペルツィーナ社は 1949年以降も存続し、1959年から 1972年までペルツィーナブランドの楽器がレンツェン(Lenzen)で製造されていた。1972年、同社は収用され、VEB Deutsche Piano-Union Leipzigに組み込まれ、ベルリンの壁崩壊後に再び民営化された。

また、Ludwig Cleweは Schloßstraße 17(Café Prag)、Bäckerstraße 22、Knaudtstraße 26、Mozartstraße 14などの住宅、Kaninchenwerderの展望台、Gustav Hamannと共同で旧登記所を設計・建設した。」とあります。

Perzina pianos.JPGVon RAY930 – Messe, CC BY-SA 4.0, Link

「Perzina(Gebr. Perzina, Gebr. Perzina GmbH, Alvari-Piano-GmbH, Pianofortefabrik Gebr. Perzina)は、1871年から 1929年頃まで、シュヴェリンで鍵盤楽器を製造していた会社のブランド名である。」とのことです。

✙✙ 詳しくはここをクリック下さい

創業と「宮廷御用達ピアノ製造業者」への指名

1871年 6月 1日、ツィッタウ生まれの楽器職人、アルベルト(1842年 1月 9日生まれ)とユリウス(1844年 7月 13日生まれ)ペルツィナが、ピアノ工場 Gebrüder Perzinaをシュヴェリンに設立した。彼らはそれまでに、ベヒシュタイン、デュイセン、シュヴァテン、レーニッシュといったピアノ工場で学び、働いていた。というのも、彼らの父親であるアントンは、すでに彼らの故郷でこの職業を営んでいたからある。

1883年、ユリウスとアルベルト・ペルツィーナは、大公から「メクレンブルク大公国宮廷ピアノ製造者」の称号を受けた。その後、ペルツィーナ社は、「オランダ女王陛下」「ポルトガル国王陛下」「アンハルト公爵殿下」の宮廷ピアノメーカーにもなった。ピアノ工場の設立から数年後、兄弟の長男アルベルトは事業から撤退したが、「ゲブルーダー・ペルツィーナ(ペリツィーナ兄弟社)」という社名は残った。

1894年にはアントワープで開催された万国博覧会、1895年にはアムステルダムで開催された国際博覧会に出展し、1901年にはレターヘッドに「ドイツ・バルト海地域全体で最も大きく、最も効率的なピアノ工場」と記している。

ダニエル・フースの指揮のもと、新たな市場を開拓する

1897年初頭、シュヴェリン工場のスタッフが 10週間ほど仕事を中断したことがあった。従業員は賃上げを求めてストライキを行った。1897年 4月 30日、52歳の創業者ユリウス・ペルツィーナは胸膜炎の悪化により、温泉地メラノで死去した。 ゼネラル・パートナーシップの設立後、工場の経営はハンブルクの商人ダニエル・フースに引き継がれ、その後 20年間にわたって経営された。経営者の息子がコマーシャル・マネージャーとして、ピアノ工場を職人のための工場から工業用の工場へと変えていった。工場が設立された 1872年には 20台の楽器が生産されていたが、1897年には 315台、1900年には年間 768台の楽器が生産されるようになったという。1904年 7月 26日に発生した大火災により、生産部門の建物のほとんどが焼失した。その後の 3年間で、石工職人のルートヴィヒ・クレヴェは、OHGの株主の仕様に沿って、現在も残っているヴィスマルシェン通り 144番地の本館を含む、新しい工場の建物を建てた。

第一次世界大戦が始まると「Gebr. Perzina」は軍隊向けの製品を製造した。1914年 8月からは「Fokkerwerke Schwerin」のフィッティングやプロペラに加えて、弾薬用の薬莢も新しい製品ラインに加わった。1916年、同社は検事局の標的となった。不合格になった弾薬の薬莢が新たに納入されたものに混入していたり、従業員が賄賂を受け取ろうとして通報され、逮捕されたりした。このスキャンダルには、進取の気性に富むマネージャー、ダニエル・フースも関与しており、彼は 10ヵ月の禁固刑と 2年間の名誉喪失の判決を受けた。1917年 8月 23日、アンソニー・フォッカーが 400人の工員と従業員を連れて工場を引き継いだ。ベルサイユ条約により、1919年に航空機メーカーのフォッカー社はシュヴェリンの社屋を離れた。

終戦後、フォッカーはピアノ工場をメーカーのオットー・リボーに貸し出した。1920年 4月からは、ピアノに加えて家具やボックスも生産するようになった。グーテンベルク通りにある第 3工場は、1923年から「Alvari-Piano-GmbH」という名称で運営されていた。ヴィスマルシェン通りでのピアノの生産は 1929年頃まで続いた。 1933年には、Niederdeutscher Beobachter(新聞社)が旧本館に移転した。シュヴェリンのピアノメーカーであるヴィルヘルム・マイヤーは、オットー・リボーとともに「Gebr.Meyer」の名で個々の楽器を作り続けていた。リボーは 1930年代半ばに会社を去った。1949年まで、同社はシュヴェリンの住所録に「Gebr. Perzina GmbH, Pianoforte-Fabrik, gegr. 1871. Inh. Wilhelm Meyer, Wismarsche Straße 153」と記載されていた。ペルツィーナハウスは、1984年から 2013年まで、シュヴェリン市立図書館が使用していた。

レンツェン(Lenzen)では、1959年から 1972年まで、国家の参加を得て「ペルツィーナ」ブランドのピアノやグランドピアノが製造されていた。1930年代初頭、ベルリンのピアノメーカーであるフリードリッヒ・ガイルは、ワーグナーピアノのブランドでレンゼンでピアノの生産を開始していた。彼は、登録商標「Gebr.Perzina」の権利をシュヴェリン地方議会から受け取った。1972年には収用され、ライプツィヒの VEB Deutsche Pianoforte-Unionに譲渡された。

東西ドイツ統一後

1989年にベルリンの壁が崩壊すると、ワグナーとペルツィーナのブランド名は再びガイル家に引き継がれ、ピアノ生産の再編成が試みられた。1990年末に設立されたばかりの GmbHは、専務の急逝により、前生産部長が指揮を執ることになった。1990年代半ば、オランダの音楽卸会社 Roland Bol社がまず世界的な流通を担い、その後事業を買収した。徐々に生産拠点を海外に移していった。1996年 12月、ついにレンツェン(Lenzen)のピアノ工場は閉鎖された。中国の会社は、1998年から Yantai-Perzina Piano Manufacturing Company L.T.D.という名前で、Parzina Bros.のロゴ入りのピアノやグランドピアノを製造している。ドイツの著名なピアノブランドの販売権を持つ Roland Bol社が引き続き販売管理を行っている。

2013年、シュヴェリン市立図書館は、ヴィスマルシェン通り 153番地の元住宅兼工場の建物から移転しなければならなかった。その理由は、リストアップされた建物の構造的欠陥であった。シュヴェリン市は 2016年までこの建物を約 80万ユーロで売却しようとしていた。このような状況下では、建築物として指定されていることや、高額な改修費用がかかることから、売却は成功しなかった。現在、シュヴェリン市はこの建物をイベントに使用することを計画している。この目的のために、適切な連邦資金を調達する。博物館の併設も検討されている。

市の公式サイトから

★シュヴェリーン Schwerin -5-に続きます

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