誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(35):★シュヴェリーン Schwerin -3-

★シュヴェリーン Schwerin -2- からの続きです

シュヴェリーンの町は、周囲を複雑に入り組んだ湖沼群に囲まれており、何故ここに町ができて発展したのは、俄かには理解し難いです。Wikipediaには「交通の要衝」と書いてはありますが(笑)でも、湖がある町っていいですね。私もかつてアルスター湖のあるハンブルクに住んでいたので、こういう感じの町は好きです。鉄道駅はホテルの裏手で徒歩3分でした。泊ったのは「Hotel Niederländischer Hof」・・・オランダと何か繋がりがあるのでしょうか?

Germany schwerin aerial view ArM.jpg
CC BY-SA 3.0, Link


独語 Wikipediaの記述によると「Schwerinは、1018年に Wendenburgとして初めて言及され、1164年に Heinrich der Löwe(ハインリヒ獅子王)からドイツの都市権を与えられた。そのため、現在のメクレンブルク=フォアポンメルン州で最も古い都市となっている。時の流れとともに、シュヴェリンの内湖の西岸と南岸に沿って町が拡大し、町のエリア内には合計 12の湖がある。

現在の街のランドマークであるシュヴェリン城は、シュヴェリン湖とブルク湖に挟まれた島にあり、城内の教会は 1560年に建てられたものである。この城は、1918年までメクレンブルク公爵および大公の主要な住居であり、1919年に民主的な自由国家(Freistaat:共和制のこと)となったメクレンブルク=シュヴェリン公国の権力の中心であった。1990年以降、この宮殿は州議会の所在地となっている。

周辺の庭園とともに、2009年の連邦ガーデンショーのメイン会場となり、他の居住用建物との歴史的にユニークなアンサンブルとして、ユネスコ世界遺産の候補となっている。シュヴェリンは、ドイツのこの規模の都市としては珍しく保存状態の良い旧市街、隣接するシェルフシュタット、ジッペンドルフの保養地区、その他多くの登録建築物がある歴史的地区が特徴的である。」とあります。

珍しく保存状態の良い旧市街」の行には違和感が無きにしも非ず・・・1990年に訪問した際の、旧市街メインのメクレンブルク通り(Mecklenburgstr.)の一本東側のビショフ通り Bischofstraßeですが、戦災による爆撃・砲撃を免れながら補修されず放置され廃墟寸前のファッハヴェルクハウスが映っています。ドイツ統一があと何年か遅れていたら、この記述も変わっていたかもしれません

↓↓さて、泊まったホテルはこちらです。「Hotel Niederländischer Hof」(公式サイトはこちらpdfパンフレットはこちら

独語 Wikipediaの解説によると「1901年、ヘルマン・クラゼマン(Hermann Krasemann)はヴィルヘルム通り(現在のZum Bahnhof)にある自分の家を「ホテル・ニーダーレンディッシャー・ホーフ(オランダ館)」と名づけた。これは、フリードリヒ・フランツ 2世大公の末っ子であるメクレンブルク公ハインリヒ・ツー・メクレンブルクがオランダのヴィルヘルミナ王女(後に女王)と結婚したことに由来するこの家は 1881年に建てられた。

1921年、クラゼマンズ・ホテルは現在のアレクサンドリーネン通り 12/13に移転した。 そのため、ハンス・ストッファース(Hans Stoffers)の設計により、既存の 4階建て 12階のネオクラシカルな建物がホテルに改築された。家にはエレベーター、小さな図書館、暖炉の部屋、高貴な壁紙、古いシャンデリアなどがあった。部屋には四柱式ベッド、温水・冷水、電話などがあり、古いものと現代的なものが混在していた。クラセマンは、1922年に「女王陛下とメクレンブルク公ハインリヒ殿下の宮廷御用達」の称号を得た。

歌手のクレア・ワルドフ、作曲家のパウル・リンケ、女優のアスタ・ニールセンとオルガ・テシェホワ、道化師のクロック、フェリックス・グラーフ・フォン・ラックナー大尉、テノール歌手のホセ・カレーラス、俳優のクラウス=マリア・ブランダウアーなどがゲストとしてこのホテルに宿泊した。1970年まではクラゼマン家が運営していたが、その後はドイツ民主共和国の Volkseigene Gaststätten- und Hotelorganisationが運営していた。1994年には民営化され、1998年まで改装が行われ、2000年には隣の建物が追加された。」とあります。


我々のような庶民感覚では所詮理解出来ない話ですが、オランダのウィルヘルミナ女王陛下の結婚相手が北ドイツのメクレンブルク大公の末っ子ハインリヒだったということで・・・日本の皇室では起こりえない話ですね。

ウィルヘルミナの家系図を見ると、母親が 「Emma zu Waldeck und Pyrmont」である他に、父方の曾祖母に「Wilhelmine von Preußen」「Sophie Dorothee von Württemberg」、母方の曾祖母に「Emma von Anhalt-Bernburg-Schaumburg-Hoym」「Pauline von Württemberg」など、ドイツ系の公女ばかりで、王族の間では今日の概念での「ドイツ人」「オランダ人」という感覚は無かったことが伺えます。

「1901年 2月 7日、ヴィルヘルミナはメクレンブルク公ハインリヒと結婚した。この結婚は、皇太后がドイツ皇帝ヴィルヘルム 2世との間で取り決めたものだった。4回の流産を経て、1909年には一人娘のユリアナ・ルイーズ・エマ・マリー・ウィルヘルミナ(1909-2004)(オランダ王女、オレンジ・ナッソー王女、メクレンブルク公爵夫人)が誕生した。」・・・とあります。

一方、ハインリヒの記述には「1900年、シュヴァルツブルクに親戚を訪ねた際、母親のエマと一緒に滞在していた当時19歳のオランダ女王ヴィルヘルミナと出会う。 苦労して交渉した結果、1901年2月7日にヴィルヘルミナと結婚した。

この非常に不幸な結婚により、娘で後のユリアナ王妃が誕生した。彼女は母親の姓を与えられ、メクレンブルク公爵夫人という称号の前に、オランダ王女、オレンジ・ナッソー王女という称号を使った

結婚中から使っていたオランダ名のヘンドリック王子は、息子である後の法学者・極右政治家のピム・リーエル(1918-2015)を含め、複数の婚外子をもうけた。1927年には、ベルリンのマソヴィア狩猟隊の名誉会員となった。ヘンドリック王子は、少将、副将、中将を歴任した。国務院のメンバーでありながら、政治的な影響力を持たなかったことは、彼にとって非常に残念なことであった。1934年、心臓麻痺で死去。」・・・とあります。

オランダ女王と結婚したドイツの片田舎の公爵の末っ子・・・なんか肩身が狭かったんでしょうか?複数の婚外子ですか・・・やっぱり庶民には分かりませんね、いや。ちょっとだけわかる気もしますけどね(笑)

Königin Wilhelmina mit Familie.jpg
Von Autor unbekannt – Historische Postkarte, Gemeinfrei, Link

Wilhelmina as a young woman.jpg
Von Autor unbekannt – , Gemeinfrei, Link

↓↓オランダでは代々「女王」が国王でしたが、123年ぶりの男性国王「Willem-Alexander(ウィルヘルミナとハインリヒの曾孫にあたる)」は、2019年 5月に自分のルーツであるメクレンブルクのシュヴェリンを訪問し、かつてここの王子様が不幸な結婚をしたとかいうことにはお構いなく、庶民の大歓迎を受けます。こちらにアマチュアカメラマンでオランダ王室のファンの人のブログがあり、その興奮ぶりが伝わってきます。(下の画像も同ブログから借用)

★シュヴェリーン Schwerin -4-に続きます

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