- 2024-10-6
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★★ ノイブランデンブルク Neubrandenburg -1- からの続きです
実はこの町も私にとっては「再訪」となります。東西国境が開き、外国人にも国境でビザが発給されるようになった 1990年 5月、駐在地の同僚と東独北部をドライブした際に立ち寄ったのです。
Wikipediaの統計によれば、今は 63,000人ほどに減ってしまった人口も当時は 90,000人近くいたハズですが、夕方に訪れたこの町は妙に閑散としており、社会主義様式で建てられた集合住宅に夕陽が当たる様は、この町がこの先辿るであろう運命を暗示しているような気さえしたものです。
↑↑ 1990年 5月 ↓↓ 2023年 5月 ほぼ同じ場所から・・・この写真を撮りたくてここに来たようなものなんです。
33年の時を経て建物の外壁や道路は綺麗に補修されています。人口も当時と比べると3割程減った勘定ですが、外国人の移民が増えてむしろそれなりの活気はある印象です。実はこのあたり、現在のメクレンブルク=フォアポメルン州の東部地区は第二次大戦末期に、進軍してきたソ連赤軍に徹底的に蹂躙・破壊された地域なのです。
西から進軍してきた米軍を主体とする西側連合軍と、東から進軍してきたソ連赤軍は概ねエルベ川で出会うことになります。北部では終戦時には米軍はエルベを越えてさらに東のルーヴィヒスルストまで進軍していたことが分かります。この後、1945年 7月にはソ連赤軍にエルベ川を越えてかなり西側の地域まで引き渡すことになりますが、それはまた別の話として・・・。統制の取れた米軍に占領された地域では左程ひどい掠奪や戦争犯罪は起こらなかったのに対して、2,000万人を超える犠牲者を出していたソ連の赤軍に占領された地域は「報復感情」も凄まじく、ありとあらゆる戦争犯罪が起こります。
人種的優越感や国家社会主義的世界観の崩壊、そしてソ連兵による暴力への恐怖や実際に受けた暴力により、多くの人々が生き続ける意味を疑うようになった。多くの人々は、自分自身と家族にとって死が唯一の解決策であると考えた。多くの母親や父親がまずピストルや毒物で子供たちを殺し、あるいはトレンゼー湖に沈めてから自殺した。歴史家は、ノイブランデンブルクでは終戦間際に300件以上の自殺があったと推定している。(Zeitlupeのサイトより引用)
↑↑ 戦前の眺め:遠景には聖マリエン教会、中央には広場の中に独立して建つラートハウス、近景手前には聖ヨナニス教会が見えています
↓↓ 1946の写真:聖マリエン教会の塔から(上の写真とは逆方向に)撮ったものと思われますが、遠くに聖ヨハニス教会は見えるものの、ラートハウスは跡形もなくなり、殆どの地域が更地同然になっています。
そして戦後の復興は「都市開発の16の原則」に基づいて行われることになり、こういう建造物が立ち並ぶ町となったのです。これは冒頭の写真(Stardarder Strasse)の場所です。
★★ ノイブランデンブルク Neubrandenburg -3- に続きます