誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(29):★★ハレ(ザーレ)Halle (Saale) -8-

ハレ(ザーレ)Halle (Saale) -7- からの続きです

街歩き報告を続ける前に、どうにも気になっている「HANDELSBÖRSE」についてもう少し深掘りすることにします。ネットで関連キーワードを検索するとかなりいろいろなことが分かります。凄い時代ですね!これ以上は現地に行って、旧東独時代に実際にこの居酒屋に通っていた人に会って事情を訊いたり、飲食や建築関係の役所に行って古いドキュメントを調べたりということをするのでしょうが、その一歩手前まではネットで迫ることができます。

↓↓ 1997年 11月 9日、ベルリンの壁崩壊から 8年後ですが、この時点で営業していたのかどうか定かではありません。少なくとも西独の飲食業は入口の目立つところに「メニュー(価格表)」を掲示することが義務付けられていたはずで、それは統合後の旧東独の各州でも同じく義務付けられたと思うのですが、この写真では見当たりません。また、ドアも開かなさそうな風情で・・・営業を停止して暫く経っていたのかもしれません。ただそうすると、結構ガラスなどが割られて廃墟化していくものなんですが、そういう気配もありません。マルクト教会の横の通り(Talamtstraße)を挟んで直ぐ目の前という目立つ場所だからでしょうか・・・

↓↓ 年代は不明ですが、この居酒屋のポストカードです。

「HANDELSBÖRSE Halle」で検索すると Facebookのとあるグループがヒットします。「HALLE-SAALE-SCHLEIFE Von Mehlmus bis Fettbemme」というもので、「Von Mehlmus bis Fettbemme」は DeepL翻訳で「小麦粉のマッシュからファットクリームまで」と訳されます。恐らく旧東独に独特な単語で、旧東独時代を知っているハレの高齢者のチャットルームと想像され、所謂「オスタルギー Ostalgie:(Ost(東)+Nostalgie(郷愁)からなる造語で、旧東独時代を懐かしむこと)」のグループなのでしょう。そこにはこんな書き込みがあります。

取引所

16世紀に建てられた急勾配の切妻とスイスハウス風のファサードを持っている古い建物に、1896年にオープンした Talamtstraße 9の居酒屋は、の周りにはいくつかの、一部はちょっと不思議な物語が絡み合っています。

ポストカードの写真が撮影された当時は、Adolf Thiersmann(おそらく正面のテーブルにいる男性)が店主でした。開店当初は、朝、店主がドアを開けるとお客さんが来て、夕方、店主が鍵をかけるとお客さんが帰っていくという、ちょっと怪しい評判のパブでした。大将はカウンターの後ろに高々と座っており、鏡を使ってパブの隅々まで見ることができました。そして、冬になると鉄製のストーブで暖房をしていました。その後、この建物はリフォームされました。HANDELSBÖRSEは既に長い間、営業していませんでした。(■ 2018年 6月の投稿)

Bernd Mutschke氏のコレクションの絵葉書は、カレンダー「Halle on historical postcards 2018 – inns and garden pubs, taverns and restaurants」の 6月のページにあります。
—————
FRÜSTÜCKSBÖRSEとも呼ばれてた。でも、これはジャムロールが出てくるって意味じゃないぜ。
—————
ボックルストやフライドポテトがあった。部屋の中は暗くって、煙草の煙でおぼろげにしか見えないんだ。
—————
7時 30分にはもう開いていたと思う……だから、医院が開くのもその頃だ….

DIE HANDELSBÖRSE

Wieviele, zum Teil abstruse Geschichten ranken sich um das Lokal in der Talamtstraße 9, dass sich seit 1896 in diesem uraltem Haus aus dem 16. Jh. mit seinem steilen Giebel und einer Fassade im Schweizerhausstil befand.
Als die Fotos der Karte entstanden war Adolf Thiersmann – vermutlich der Herr am vorderen Tisch – der Inhaber. In den letzten Jahren seiner Öffnung hatte das Lokal einen eher zwielichtigen Ruf – mit Gästen, die kamen, als der Wirt morgens die Tür öffnete und gingen, als er sie abends wieder verschloss. Der Wirt trohnte erhöht hinter seiner Theke und konnte mittels Spiegel auch die letzte Ecke des Lokals einsehen. Und noch immer heizte im Winter der eiserne Ofen. Inzwischen ist das Haus saniert. Das Lokal Handelsbörse existiert schon lange nicht mehr.
Die Postkarte aus der Sammlung von Bernd Mutschke ist zu sehen im Monat Juni im Kalender: „Halle auf historischen Postkarten 2018 – Gasthöfe und Gartenlokale, Wirtshäuser und Restaurants“.
—————-
Auch genannt FRÜHSTÜCKSBÖRSE. Womit aber kein Marmeladenbrötchen gemeint war.
—————-
Bockwurst oder Bratkartoffeln gab es. Die Bude war grau wie die Gäste, welche man durch den Zigarettenqualm nur schemenhaft sehen konnte.
—————-
Ich glaube die Bude hatte schon um 7.30 geöffnet …also dann wenn die Arztpraxen öffneten…

↓↓ 更にこれは別のSNSですが

「Tanzbar Melodia」(Jägergasse)と「Handelsbörse」(Talamtstraße)は、「厚い空気」が別の意味を持つことを示す最良の例でした…😀。
—————-
取引所は朝 9時に開店し、夕方 6時に閉店するのだが、9時に来た「お客さん」は 6時になってもまだ座っていることが多い。真ん中の鉄製のストーブは、同じウェイターが温めたもの。プラムやりんごなどのスロットマシンが常時稼働していた。家主はカウンターの後ろのやや高い位置に陣取っており、鏡を使って奥の方まで見ることができた。そこでは、正午になっても、酒を飲んだ人が酔っぱらってベンチから沈んでいくのを見たことがある。入り口の右手にある丸い常連のテーブルには、いつもそこに座ってサイコロを振っている人たちが座っていた。このテーブルでは、私は一度も席に着く栄誉を得られなかった。提供される食事は、ソーセージや目玉焼きなど、とても限られたものでした。飲んだのはビールとシュナップスだけ。そこには「グラウハの貴族ども(■)」が集まっていた。
■ 註:ハレの郊外に「グラウハ Glaucha」と呼ばれる市区があり、そこは宗教改革の時代に「酒の醸造権・蒸留権」「市場開催権」などの特権が与えられた。また二十世紀には労働者の拠点だったこともあり、そこから労働革命家なども輩出した・・・という経緯で Glauchaで生まれ育った人のことをハレっ子たちは「グラウハの貴族 Der Glauchsche Adel」とあだ名するようになった。
—————-
89年 10月、月曜日のデモのために、友人と一緒にパブのテーブルに「暴力は無し(Keine Gewalt)」と書かれたラベルを貼ろうとしたところ、家主に「ウチでやるんじゃねぇ!(bei mir nicht)」と怒鳴られ、追い出されてしまいました。
—————-
Handelsbörseは、女性が迷い込んできて入り口の 3段の階段を降りてくると、男性が(ほとんど男性しかいませんでしたが)「唇の泡をぬぐう」パブでしたことを付け加えておきます。

Die “Tanzbar Melodia” (Jägergasse) und die “Handelsbörse” (Talamtstraße) waren bestes Beispiel dafür, dass “dicke Luft” verschiedene Bedeutungen haben kann… 😀
—————-
Die Handelsbörse machte m.W. morgens um 9 auf und abends um 18 Uhr zu, die “Kunden”, die um 9 kamen saßen um 18 Uhr meist auch noch da. Der eiserne Ofen in der Mitte wurde vom stets gleichen Kellner beheizt. Der Spielautomat mit Pflaumen, Äpfeln usw. war ständig in Betrieb. Der Wirt thronte etwas erhöht hinter seiner Theke und konnte mittels Spiegel in die hintere Ecke sehen. Dort habe ich mal bereits gegen Mittag eine Zecherin betrunken von der Bank sinken sehen. Rechts vom Eingang saßen am runden Stammtisch die, die immer dort saßen und würfelten. An diesem Tisch hatte ich nie die Ehre, Platz zu nehmen. Das Speisenangebot war sehr begrenzt, Würstchen, Spiegeleier etc. Es wurde nur Bier und Schnaps getrunken. Der Glauchsche Adel war dort anzutreffen.

 

 

 

—————-
Im Oktober 89 wollte ich dort mit einem Freund für die Montagsdemo an einem Kneipentisch Stoff mit der Aufschrift “Keine Gewalt” beschriften, da hat uns der Wirt angeschrien “bei mir nicht” und hat uns rausgeschmissen.
—————-
Die Handelsbörse, das muß ich noch nachschieben, war eine Kneipe, wo sich die Männer -und es gab dort fast nur solche- den ” Schaum von den Lippen wischten”, wenn sich ein weibliches Wesen dorthin verirrte und die drei Stufen am Eingang herunterkam.

↓↓ 次にビールのブランドについて調べてみます。

「EKU」と「MEISTERBRÄU」のふたつが見えますが、「EKU」は「Kulmbacher Brauerei」というバイエルンの一大ビールコンツェルンのブランドのひとつです。1997年時点ですから、当然旧西独のビールも進出していたわけです。本多勝一氏もその著書「ドイツ民主共和国」の中で書いていますが、旧東独のビールは正直申して旨いものではありませんでした。独特の妙な甘みがあり、沈殿物が有ったりして、旧東独の人もビールを買う際には瓶を持ち上げて太陽光に透かしてみて沈殿物の有無を確認していました。中期的には品質の良い旧西独のビールに勝ち目は無かったです。

もう一方の「MEISTERBRÄU」は検索するとコースターのオンラインショップなどにヒットし、店の看板のロゴとこれが一致しました。1816年創業のハレの醸造所のようです。
旧東独時代は VEB(Volkseigener Betrieb)BRAU-UND MALZKOMBINAT HALLEという人民公社だったようです。

「MEISTERBRÄU」についてはこちらに下記の記事があります。

1816年、Christian Gottlieb Rauchfußがハレに最初の醸造所を設立した。息子が経営を続けた後、1879年に甥の Hermann Freybergが経営を引き継いだ。新しい経営者のもと、醸造所は順調に拡大し、当時の経済的な上昇を享受することができた。この時、古い社屋では十分ではなく、1886年に醸造所はザーレ川の麓の新しい場所に移転した。さらに、ハレ全体での生産のために、さらに会社の敷地を取得した。こうして 1931年には、最終的にハレ、メルセブルク、ケンネルン、アイスレーベンの計 4拠点で、年間 10万ヘクトリットルのビールを生産するようになった。

第二次世界大戦後、Freyberg醸造所は国有化され、名前も変わりましたが、1990年までは「VEB Getränkekombinat Halle」という人民公社の一部として、この歴史的な場所でビールが醸造されていた。

「Meisterbräu GmbH」に民営化された後、同社は 1996年に破産申請をしなければならず、その後、無条件で会社を清算することになった。これにより、ハレにあった最後の醸造所「Meisterbräu/Freyberg Brauerei」は消滅した。」

↓↓ 残念ながら醸造所跡はこういう廃墟になっています

↓↓ 最後に、建物の補修(Sanierung)について触れている記事を翻訳しておきます。

2011.03.24 01:00 Uhr by Tobias Fischer
1年前、HalleForum.deは、市場広場にある旧ハンデルスベルゼの建物の改修計画についてすでに報告していました。現在、実際に進行中です。

マーケット広場に建つハンデルスベルゼの建物が改修される
1年前、HalleForum.deは市場広場にある旧取引所の建物の改装計画についてすでに報告していました。今、それは実際に進行しています。火曜日には、建設作業員がこの建物に足場を組み始めました。一方、Bärgasseにある隣のファッハベルクの家は、昨年の計画通り取り壊されることになりました。老朽化しているので、新しい建物を建てることになりました。

Marktschlösschenの向かいにある家は、ハレ市で最も古い家の一つで、コアは16世紀半ばに建てられたと言われています。1838年には2階が増築され、世紀の後半にはさらなる工事が行われました。歴史的な母屋の傷んだ床板や、300年前の漆喰の天井などを保存し、改修する予定です。しかし、木製の階段は、防火上の理由からスチール製の階段に変更されます。

合計15戸のアパートメントが計画されており、そのうち2戸にはルーフテラスが設置されます。1階には店舗が戻ってきます。

↓↓ そして今(2019年 5月撮影)はこんな感じになっています

ハレ(ザーレ)Halle (Saale) -9- に続きます

関連記事

ページ上部へ戻る