- 2024-9-23
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★★★ ヴィッテンベルゲ Wittenberge -6- からの続きです
駅に戻って来て、普通はそこで終わるところですが、ちょっと気になることを調べておきます。ヴィッテンベルゲから約 10km北東にあるベルレベルクとの比較です。
今、ハンブルクとベルリンの間の鉄道が長期間の補修・改修に入っているため運休しており、その為、鉄道路線が GoogleMapにうまく表示されず分かりにくいかと思いますが(青い路線はアウトバーン 24号線)幹線の鉄道路線はヴィッテンベルゲを通っています。ヴィッテンベルゲからペルレベルクには僅か一駅ではありますが支線で行くことになります。鉄道が企画された 1850年代にはペルレベルクを通る案も検討され、実際に測量まで行われましたが、最終的にはヴィッテンベルゲを通る案が採択されました。
当時、町のサイズとしてはペルレベルクの方が大きかったようですが、エルベ川沿いであり水運も活用できることや、エルベ川を越えて南部に向かう路線の架橋に有利なことなどからヴィッテンベルゲが選ばれたものだろうと推察します。このことが町の発展に与えた影響を人口推移から見てみます。
三十年戦争(1618-1648年)がドイツに与えた被害は甚大なものがありましたが、このあたりはグスタフ・アドルフ率いるスェーデン軍に蹂躙された場所です。ペルレベルクで見ると 3,500人から 500人へと一桁減っています。ヴィッテンベルゲは戦前の数字はありませんが「実質的に無人化していた」という記述も見られることから、同様な被害が有ったものと推察されます。
幹線鉄道が敷設され、ヴィッテンベルゲの駅舎が出来た 1946年にはまだペルレベルクの人口の方が多かったようですが、1875年に拮抗し、それ以降はヴィッテンベルゲが大きく伸び第二次世界大戦中も減ることはなく、旧東独時代のピーク時の 1971年には 33,000人を超えます。それが 1990年には 30,000人を割り込み、東西ドイツ統一後は多くの旧東独企業が倒産・整理され、更に人口減が加速し遂には 16,000人台となって漸く下げ止まったかに見えます。
一方のペルレブルクは幹線鉄道開通の恩恵を受けなかったようですが、逆に人口の激動も無くピークで 14,000人台だったものも今も 12.000人程度を維持しています。町にとってどちらが幸せだったのでしょうか?
【ヴィッテンベルゲ工業化の盛衰】
1900年まで
1820年には、ベルリン-ハンブルク間の旅客船路線で最初の蒸気船がヴィッテンベルゲの港に停泊した。市の産業ブームは、1823年に石油精製所が建設されたことで始まった(1823年~1935年: 商人サロモン・ヘルツによる製油所(1823年~1935年:ヘルツ製油所、1942年~1946年:マーキス製油所ヴィッテンベルクAG、1946年~1990年:VEBマーキス製油所ヴィッテンベルク、1990年~1991年:マーキス製油所GmbHヴィッテンベルク)の建設により始まった。
エルベ川港の完成 1835年のエルベ川港の完成と、1846年10月15日のベルリン・ハンブルク間の鉄道開通、さらに1847年から1851年10月25日の間にマクデブルク、1874年にリューネブルク、1879年にザルツヴェーデルへの連絡線の完成も、この都市の経済発展に重要な役割を果たした。製油所は、1846年の石鹸工場、1849年の化学工場、1875年の鉄道修理工場(現在も存在)へと続いた。
1900-1945年
1903年、ニューヨーク市に拠点を置くシンガー・マニュファクチャリング・カンパニーがミシン工場を建設し、1920年代まで数回にわたって拡張された。1928年から29年にかけては、ヨーロッパ大陸で最大の自立式塔時計が追加された。シンガーミシンは1945年5月3日までここで製造されていた。ドイツ民主共和国時代にもミシン製造は継続され、成功を収めた。ヴィッテンベルゲのミシンは、VERITASやNaumannのブランド名で世界的な製品となった。
1912年には、グロピウスの建築事務所が、市北部の広大な労働者向け住宅地「アイゲネ・シェレ(Eigene Scholle)」のプロジェクトと建設管理を引き継ぐことになった。1913年から1914年にかけて、このようにして3種類の住宅が建設され、グロピウスの合理的建築のコンセプトが初めて実現された。ヴィッテンベルゲの町は、これらの建物を保存指定の対象としなかったため、数十年にわたる使用や、個人の改築や増築により、当初の姿は失われてしまった。
製油所、シンガー、鉄道工場、さらに1935年のノルトドイチェ・マシーネンファブリーク(Norddeutsche Maschinenfabrik)や1937/38年のセルロース・レーヨン工場などの工場建設により、ヴィッテンベルゲは地域で最も重要な工業都市となった。 工業と経済の好況により、人口は急速に増加した。これにより都市圏の拡大につながった。特に旧市街と、その北東約1キロに建設された鉄道駅との間には、労働者向けの集合住宅が数段階に分けて建設された。その中には、創成期の建物も多数含まれており、徐々に再開発が進められている。アール・ヌーヴォー様式のファサードを持つ「四季の館」も、特に注目に値する。
ヴィッテンベルク市庁舎(塔の高さ51m)は1912年から1914年に建設され、その記念碑的なデザインは、新興工業都市の首都への野望を象徴している。この目覚めは、1914年から1918年の第一次世界大戦と、1920年代後半からの世界恐慌により、その勢いは失われた。
第二次世界大戦中の1944年と1945年には、ヴィッテンベルゲは第8空軍により5回攻撃された。合計119機の4発爆撃機が、市街地に345トンの爆弾を投下し、工業施設、交通施設、住宅地に甚大な被害をもたらした。1945年2月22日の攻撃は、連合軍の大規模な「クラリオン作戦」の一部であり、28人の命が奪われた。1945年3月15日の攻撃では100人以上の命が奪われた。合計すると、 216人が連合国軍の爆撃や砲撃により命を落とした。終戦後の占領後、ヴィッテンベルクでは、それまでエルベ川で対峙していた米軍兵士と赤軍兵士による合同の勝利パレードが行われた。
1945年以降
1990年のドイツ再統一は、プリグニッツとヴィッテンベルゲにとって、重要な企業の喪失という大きな経済的変化をもたらした。3,000人の従業員を擁するミシン工場に加え、パルプ工場(VEB セルロース、1990年)と製油所(1991年)も閉鎖された。大企業では、ヴィッテンベルゲの旧国鉄修理工場(RAW)のみが残った。同工場は現在、ドイツ鉄道の保守工場となっている。それに伴う失業により、住民の大幅な流出(1990年以降、毎年約2%)が起こり、その終息はまだ予測されていない。2000年までは、ハンブルクーベルリン間のICEが1時間に1本運行していたヴィッテンベルク駅も、その重要性が大幅に低下した。
2000年の町創立700周年を機に、ヴィッテンベルゲは、ドイツ国内で有名なエルブランデスフェストシュピーレ・ヴィッテンベルク(Elblandfestspiele Wittenberge)(EFS)の開催地となった。これは、オペレッタと軽演劇の国際フェスティバルで、ドイツ国内では最も重要な音楽フェスティバルである。同時に、ヴィッテンベルクは国際オペレッタ歌唱コンクール「パウル・リンケ」の開催地でもある。
【まとめ】
以上のように、幹線鉄道開通を機に工業化の波に乗ったヴィッテンベルクは、それに伴う人口増と住宅建設で町の規模が大きくなり、そこから統一後の企業整理・撤退・倒産などで、町の人口が半数になる規模の流出が起こった・・・町の閑散感・寂寥感・活気の無さはそのあたりから来ているように思います。一方で、そのあたりを補うというか歯止めをかけるために「音楽祭」の誘致や文化活動に力を入れている感じです。それがどこまで奏功するのかは未知数です。
一方で、そういう工業化と衰退の影響を殆ど受けなかったペルレベルクも、特段活気のある町とは見えず、建物の現状も東独時代の部材がそのまま使われているのではないかと思われるフシさえあります。そのあたり、旧東独の町の復興や再興に当たって考えるべきヒントがあるように思います。
★★★ ヴィッテンベルゲ Wittenberge の章を終ります
シリーズ:誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte に戻ります。