三十年前のドイツ(35):1989年11月9日木曜日 ベルリンの壁崩壊(2)

三十年前のドイツ(34):1989年11月9日木曜日 ベルリンの壁崩壊(1)からの続きです。

以下は歴史家の Guide Knoppの Unser Jahrhundert(私たちの世紀)からの一部引用です。

 東独の人々はこの湿気を含んだ冷たい、靄のかかった11月の夜、普段とは違ったテレビ放送を見ることになった。西独ZDFのニュース番組「ホイテ」は、まだ用心深い表現を使いながら、外国に出ることができる可能性ということだけについて、それを際立たせて報道した。19時30分、「アクトゥエレ・カメラ(東独のニュース番組)」が「外国への私的旅行は特別な理由を必要としないで、直ちに申請することが出来るようになりました。」と伝えた。5分後、ちょうど「アーベント・シャウ」という番組に出るためにベルリンのテレビ局にいた西ベルリン市長ヴァルター・モンペールは「やっと、28年待ち焦がれていた日がやってきた。国境はもはや我々を分断することはできない。」と見解を述べた。DPA通信社は19時41分、「センセーショナルなニュースです。東独と西独との国境および西ベルリンとの国境が開かれました!」と伝えた。そして20時の「ターゲスシャウ(西独第一放送のニュース番組)」は新しい旅行法のことをトップニュースで扱い、加えて「東独が国境を開いた」という見出しをチカチカと点滅させた。

 このニュースは東独市民を飛び上がらせた。壁は本当に皆に対して開かれたのだろうか?東ベルリン市民は、この信じがたい想像を自分の目で確認したいと思った。シャボウスキーが発表した旅行法に関しての文章は決定ではなく草案に過ぎなかった。もしそれが決定だったとしたら、既に午後には検問所には知らされているはずであった。しかし、国境警備兵達にはテレビの前の視聴者ほどには情報が伝わっていなかった。

 記者会見が終わって1時間経った時点では国境検問所には200人にも満たない程度の東ベルリン住人しか見あたらなかった。が、西側のニュース番組「ターゲスシャウ」が好奇心を掻き立て、人の流れを大変な勢いで加速した。国境手前にいた人民警察官は家に帰って翌日まで待つようにと説得を試みた。しかし、人々は帰らず、その数は更に増えていった。彼らは家から、あるいは飲んでいた居酒屋から徒歩で、路面電車で、あるいは車でやって来た。テレビやラジオを置いてニュースが放送された飲食店は空っぽになった。「俺は仕事仲間と一緒にダンス・カフェに居たんだよ。」とベルリンの若い労働者は言った。「そしたらウエイトレスがテーブルんとこにやって来てさ、『なんてこった、国境が開いたってさ!ニュースで聞いたんだよ!』と言ったんだ。その証拠に、その子はテープレコーダを出してそのニュースを聞かせたのさ。、もういっぺんに店中が大騒ぎになってさ、みんな勘定!勘定!勘定!って、そりゃあもう。」

映画 Bornholmer Strasse(2014)より

 国境はまだ閉ざされていた。しかし午後9時頃にはボルンホルマー通りにある国境検問所の遮断棒の周りには千人もの人々が集まっていた。壁の西側では報道陣が「その時」を待ち構えていた。東独の国境係官は驚きうろたえた。「どこまで人の群が続いているのかもはや見通せませんでした。」と後に、当直の責任担当官のハラルド・イェーガー中佐は語った。ボルンホルマー通りに人々が押し掛けたのは決して偶然ではなかった。というのは、ここは市内の他の検問所とは違って、壁のそばギリギリまで賃貸アパートが建っていたからである。イェーガーもまた新しい旅行法のことをテレビで知った。彼の最初のリアクションは「最初は馬鹿馬鹿しいと思いましたよ。直ちに発効だって?そんなことがあるはずがない。」

映画 Bornholmer Strasse(2014)より

 しかし、21時を過ぎたころから群集は声をあげて国境の開放を要求し始めた。国境検問所から後ろには何キロもの渋滞ができた。これをさばくには少人数の当直警備兵では荷が重すぎた。警備兵は武装してはいたが、武器を使用することは、自己防衛本能から問題外であった。もし群集がいっせいに押しかけた時、こちらが撃ったりしたら、我々は国旗掲揚用のポールに吊るされることになったでしょう。」とイェーガーの副官、マンフレート・ゼンスは語った。程なくしてイェーガーは上司に連絡を取り、圧倒的な数の群集の圧力を目の当たりにして、彼らの「出国」を許可するよう頼んだ。ミールケの副官ゲルハルト・ナイバーは「反抗的な者」「挑発的な者」のみ出国させるよう指示した。

 しかしこのアイデアは成功しなかった。壁に集まる群衆はどんどん増えつづけ、「国境を開け!開け!」と声高に要求した。22時30分、検問所前の金網が横から押し倒されそうになり、イェーガーは同僚の身の危険を感じた。彼は電話で上司に報告した。「もうこれ以上は止められません!門を開くしかありません!溢れています!」パスポートコントロール担当官は国境の遮断機を上げると、何千人もが歓声をあげながら無秩序に西ベルリン側に流れ込んだ。そしてそこで大歓迎を受けた。「私たちは考えました。どうするのが最善なのか。そして私たちは成り行きに背中を押されるように扉を開き、人々を西側に出したのです。」とイェーガーは当時を振り返った。

 その後一時間の内に、この検問所だけでも二万人以上の人が国境を越えた。22時になる少し前、東独のテレビは流していた映画を中断し、閣議の決定とされるものを(実際にはそんなものは無かったのだが)を解説付きで読み上げた。「ターゲス・テーメン」(西独第一放送のニュース解説番組)では、キャスターのハンス-ヨアヒム・フリードリッヒが、国境は「すぐに、すべての者に対して開かれる。壁にある扉は大きく開かれたままになっている。」と発表した。西独の国会にも驚きが走った。CDUのある議員が、東独の市民が壁のどの検問所からも直接出国できることになったというニュースを読み上げたとき、議員たちは拍手を始め、それは何分にもわたって鳴り止むことはなかった。それは議場全体に鳴り響き、そして誰かが短い演説をしたのに続いて三人の議員がドイチュラント・リート(西独国歌)を歌い始めた。すぐに殆どの議員が立ち上がり一緒に歌いだし大きな合唱となった。ウィリー・ブラントは同僚に支えられて、泣きながら議場を後にした。ワルシャワに滞在していたヘルムート・コールは側近から連絡を受けた時、「それは確かか?」と問い返した。「なんと、信じられない。」そして翌朝、彼はベルリンに飛んだ。

 他の検問所でも緊張が高まっていた。人々は金網から身分証明書を中に突っ込んで、警備兵に通してくれるよう要求した。チェックポイント・チャーリーでは東独市民が押しかけて危険な状態になっているばかりでなく、集まった西ベルリン市民達も声高に開門を要求した。彼らはボルンホルマー通りでは既に東独の国境係官が遮断機を上げ、国境を開放したことを知っていたのだ。とうとう司令官は大きな圧力に耐えかねて、全ての門を開放した。彼は途方にくれながら西へ流れて行く人の群れを眺めるしかなかった。彼は、嘆願するように呼びかけた。「皆さん、ちゃんとまた帰ってきてください!」

 夜の12時前には、かつてドイツの首都だったベルリンを分けていた壁に設けられていた全ての検問所が開かれた。検問所はどこも人で溢れんばかりであった。既に寝ていた多くの人々はベットから起き出してきた。「もうウトウトしてたんだよ。ホントだよ。」と、ある者はテレビのレポーターに話した。彼のオーバーの下からはパジャマがのぞいていた。「婆さんが犬を連れて下へ降りていったと思ったら大騒ぎしながら帰ってきてさ『大変だ、みんな西の方へ行ってるよ!』って言うのさ。とりあえずオーバーを引っ掛けて来てみたんだよ。」トラバントが列をなして繋がり、喜びに溢れる人垣の間を縫って検問所から西側へと出て行った。人々はクルマの屋根をパタパタたたき、エンジンルームの上に腰掛けて喜びの声をあげた。

 ベルリン分割の象徴であるブランデンブルグ門前の壁には特別な吸引力があった。人々は発泡酒の瓶を手に、壁の両側から境界に押し寄せ、ブランデンブルグ門が近づくにつれその陶酔はいやが上にも増していった。東側の市民がブランデンブルグ門を越えると、彼等はそのまま壁に殺到した。壁が出来て28年、この夜もまだ射殺指令は活きていたのだが。彼等は西ベルリンの人々と一緒になって大はしゃぎだった。何百人もの人々が月の光の元、壁の上で発泡酒を回し飲みし、歌い狂った。彼らにかかっては、あの亡霊のような冷戦の象徴もまったく形無しであった。「それは、忘れられない光景でした。見ず知らずの人々が誰彼なしに抱き合っていました。私たちはブランデンブルグ門の柱の間を行ったり来たりしました。何度も何度も。それは初めて体験する体の底から湧きあがってくる喜びでした。西側の舗道の冷たい敷石を撫でさすっている人も大勢いました。」と、あるジャーナリストは回想した。

 伝説的とさえいえるクーダムはこの夜、東西ベルリン市民達のお祭り広場となった。何万人もの人々が夜明けまで、東西ドイツの再会を喜び合った。「ロートケプヒェン(赤頭巾ちゃん:東独の発泡酒ブランド)」と「ムム(西独の発泡酒ブランド)」を紙コップに注ぎあった「ドイツ統一カクテル」を浴びるように飲んだ。あるアメリカ人のレポーターは数えきれないほどのトラバントとヴァルトブルグの渋滞に辟易しながら「自由の(悪)臭」とコメントした。そして、人々はまた西にやってくるつもりで東ベルリンに帰っていった。その東独はもはや、何時間か前に出てきたときとは違う国になっていた。28年にも及ぶ東独国民の人質状態は無血の内に終焉を見たのである。

 すべてが平和裏に進んだのは、国境警備部隊の自制によるところも大きかった。その指揮官エーリッヒ・ヴェルナーは成り行きにすっかり動転していた。「我々は全く知らされていませんでした。」彼は上官から見捨てられたような気分だった。上からのバックアップなしに、自分の部隊を動員して群集と血みどろの戦いをするべきだろうか?そして彼は決断した。「手を出すな!」士官たちは彼から武力行使することなく、群集を「沈静化させるように」という指示を受けた。しかし、そんなことは全く不要であった。殆どの国境警備兵たちは欺かれたような感覚を味わっていた。中央区担当国境警備隊の参謀長は語った。「これについては話をすることはもうありません。彼らにとっての職業の意味、名誉そして尊厳は完全に壊れてしまったのです。」

 東独人民軍もこの夜は介入しなかった。理由のひとつには軍の上層部の誰一人としてこの夜の記者会見を注目していなかったことがあるだろう。従って、かなりの時間、街で何が起こっているか知らなかったのだ。何らかの「対抗措置」も全く俎上に上らなかった。もうひとつには、後に人民軍の参謀長フリッツ・シュトレレッツが証言したように、軍にとっては旅行法など関係のないことだったという面もあった。縦割りの管轄意識がはっきりしている軍にしてみれば、旅行法の変更などというものは国家保安省管轄の事に過ぎないとして傍観していたのである。「国境検問所の遮断機が上げられ、国境を越えることが許されることになったとしても、パスポートコントロールは国家保安省の管轄下にある職務です。」とシュトレレッツは言った。国境開放というのは軍のサイドからは厳密に政治的な決定だと受け止められていた。独断的な干渉はクーデターに匹敵するかもしれなかった。それに加えて、軍も安定した状態にあったわけではなかった。国防大臣ケスラーは、ホーネッカーの親友だとして、その権威を失っており、8月以来、軍からの脱走者も増えていた。人民軍がデモ隊に対して阻止の隊列を組もうとした際にも、かなりの数の命令拒否が起こったのである。

 壁が崩壊した翌日に西を訪問した東側住人は、西ベルリンだけでも百万人を超え、西ドイツ本土には数百万人を数えた。政治局はパニックだった。1953年6月17日の暴動、そして1961年8月13日の壁構築以来最大の東独の存在危機を切り抜けるのは、いまや総書記と彼の側近達の力にかかっていた。しかしクレンツとその同志達には起こったことを元に戻すことは出来なかった。歴史は彼らを追い越してしまったのだ。国境を閉じることは武力抜きではもはや不可能だった。確かにクレンツと国防大臣ケスラーは、軍を一ランク上の臨戦体制に置くことに合意はしたものの彼らにとっても実際に武力を行使することは問題外であった。そんなことをすれば内戦状態を招くことは明らかだった。

 東独指導部はどうしようもなく混乱していた。ヴァンドリッツに住む上層部が事態の全体像を把握し行為能力がある状態になった時には、既に遅かった。11月9日の夕方、国境警備部隊には政治当局あるいは軍部のいずれのトップからも国境を開放するという命令は届いていなかった。その逆を証明することの出来る証人も書類も見つかっていない。その代わり、クレンツとミールケは、この夜の状況を完全に読み違えていた。彼らは、国境検問所に集まった群集を「東独から出国し永久に帰ってこない」という目的だけを持った出国希望者ばかりだと思っていたのである。

 ソ連の動きはどうだったのだろう?ソ連はハンガリーとポーランドの変革を受け入れた。ここでまた壁の崩壊を抵抗することなく、武力干渉もせずに受け入れるのだろうか?ゴルバチョフはこの夜、興奮と陶酔に沸くベルリンの状況とは全く違った報告をベルリンから受け取っていた。彼の東独大使は、何千人という東独市民がウンター・デン・リンデンにあるソ連大使館前に集まり襲って占拠しようとしているという虚偽の報告をしたのだ。ソ連市民が脅威にさらされている。ゴルバチョフは不安ではあったが、東独との援助協定があったにも関わらず不干渉という彼の路線を貫いた。「私は、東独市民の声を受け入れようという決断をしたのです。」と後にゴルバチョフは語った。「我々には、彼らの声を許さないということは、東独国民全体の意志を無視することになるだろうという認識に立っていたのです。」

 11月10日の朝、DDRのソ連軍最高司令官は「動かないように」というモスクワからの指示を得た。ソ連の戦車は基地を出ることはなかった。「誰かが軍の動員というメカニズムのスイッチを入れることを思いついていたたとしたら、それは殆ど冒険に近い危険な賭けだったでしょう。結果はどうなっていたことか。」と、ゴルバチョフは言った。「政策は状況に応じて、それに合わせなければならないのです。」状況に合わせるということは、歴史の大きな動きにまかせてそれを妨げないということなのだ。

 しかしベルリンの壁の崩壊と、ソ連が軍事力を動員してそれを再構築することを放棄したということは東独から、存在の基本的な前提条件を取り上げたことを意味するものであった。SEDに支配された国家体制は解体した。ゴルバチョフは東独変革の養父の役目を担った。彼は彼の政策を通じて東西紛争を片付け、ドイツの再統一を可能にしたのだった。

 摩擦や衝突も起こりえた中で、ベルリンの壁崩壊は意外なほどに平和に包まれた祭りであり、また自由と喜びに満ち溢れたものとなった。これは奇跡だろうか?多少はそういう面もあるだろう。東ベルリン市民は、この夜、自由であるという国民の権利をきっぱりと行使したのだが、それを穏やかなやりかたで行った。それは必ずしも事前に予見できるようなものではなかった。加えてもうひとつ、偶然の巡り合わせともいえる大きな幸運があった。歴史は、今世紀の最後に、これまで苦しんできたドイツ民族にいいことを与えようと考えたのであろう。絶好の時期に、それに相応しい人々がモスクワで政治を行っていたということがまた、ドイツ人にとってのタイミングの恩恵であったのである。だからこそ歴史上初めてドイツ人は革命を成し遂げることができたといえよう。それはドイツで初めての、幸運な結末を迎えた革命であった。(引用終わり)

これは ARDの10時40分からのニュース解説番組 Tagesthemenです。まだベルリンの壁の上に人々は登っておらず、西側の比較的静かな映像が映っています。ドイツ語が分かる方向けに、動画を貼っておきます。

(この項、後日補足・加筆予定です)

三十年前のドイツ(36):1989年11月10日金曜日・11日土曜日に続きます。

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