- 2024-2-23
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★★アイゼンヒュッテンシュタット Eisenhüttenstadt -9- からの続きです
上の地図にある「WK」とは Wohnkomplex(集合住宅・複合住宅・住宅の複合体というような意味)のことで、I~ IVまでの番号は概ね建設された順と想像されます。こうして見ると今回の街歩きはあまりツボを押さえていなかったなあと反省(笑)・・・多分、もう一度行くことになりますね、これは(笑)
前回行った時の写真は上のサムネイルをクリックすると拡大しますが、Clara-Zetkin-Ringは WK IIにあるものの、後の4枚は WK I、最初に造営された街区だったようです。ラートハウスの写真が残っていないところから、この時はそこまで辿り着くまでに WK Iの風情で既に「社会主義様式」の建築に圧倒され、いずれまた必ず再訪するぞと決意するくらいに感動したということでしょう。今回は逆に、その時に見た場所を探しに行ってみます。
↑↑ これは WK IIの Klara-Zetkin-Ringの中庭から Strasse der Republik越しに、WK IIを見ているところです。
さて、社会主義体制下の東独では「都市開発の 16の原則:Die 16 Grundsätze des Städtebaus」という思想に基づいて街づくりが行われました。独語 Wikipediaからポイントを訳しておきます。
「都市開発の16原則は、1950年から約5年間、ドイツ民主共和国の都市開発の指針だった。この原則は「社会主義都市」の理想によって特徴づけられ、「社会主義古典主義」の典型的な様式を持つ第一次復興段階を形作った」
都市計画と都市の建築デザインは、ドイツ民主共和国の社会秩序、ドイツ国民の進歩的伝統、ドイツ全土の発展のために設定された偉大な目標を表現するものでなければならない。以下の原則は、この目的にかなうものである:
1.定住の形態としての都市は、偶然に生まれたものではない。都市は、人々の共同生活にとって最も経済的で文化的に豊かな居住形態であることは、何世紀にもわたる経験によって証明されている。都市は、その構造と建築デザインにおいて、政治的生活と国民の意識を表現するものである。
2.都市開発の目的は、仕事、住居、文化、レクリエーションに対する人間の需要を調和的に満たすことである。都市計画手法の原則は、自然条件、国家の社会的・経済的基盤、科学・技術・芸術の最高の成果、経済効率の要件、国民の文化遺産の進歩的要素の活用に基づいている。
3.都市は「それ自体」では生まれないし、存在しない。都市は、その大部分が産業によって、産業のために建設される。都市の成長、住民の数、面積は、都市化要因、すなわち、産業、行政機関、文化的遺産によって決定される。首都では、都市化要因としての工業の重要性は、行政機関や文化施設の重要性に次ぐものである。都市開発要因の決定と確認は、政府の専権事項である。
まあ、正直なところ抽象的で、何が言いたいのかイマイチ判り辛い部分もありますが、ポイントは「都市開発要因の決定と確認は、政府の専権事項である」「中心部は都市の核である。中心市街地は、住民生活の政治的中心である。最も重要な政治的、行政的、文化的拠点は中心街にある。政治的なデモ、行進、祝賀行事は、中心街の広場で行われる。都市の中心部には、最も重要で記念碑的な建物が建ち並び、都市計画の建築構成を支配し、都市の建築的シルエットを決定する」「平屋や 2階建てよりも多層階の方が経済的である」・・・こういう思想の現実的な表現の一例が Stalinstadt(Eisenhüttenstadt)だったのでしょう。
典型的・伝統的なドイツの町と言えば、真ん中にマルクト広場があり、それに面してラートハウス(市庁舎)があり、ゴシック様式の尖塔を持ったメインの教会があり、他にもいくつか教会があり、町の周囲にはかつての城壁の一部が残っており、場合によっては城門も残っている・・・みたいな感じですが、そういう自然発生的にできて発展してきた町とは全く異なる様相を呈します。政府の専権事項で人工的に造られるわけで、何より教会の尖塔がありません。社会主義国においては国家・政府・党が唯一の絶対権威だったので、戦災を経ても破壊されずに残った主要な教会はともかく、新しく造営された町には教会やその尖塔は無いのです。
関連の Wikipediaの項目に「Sozialistische Stadt(社会主義都市):社会主義都市とは、計画理論や都市開発史において、社会主義下の文化的・遺伝的な都市タイプを表す用語である。社会主義の社会モデルに基づいて、一定の都市計画思想がソビエト連邦と東欧圏の都市に反映され、この時期に変化した。このように、理想都市の伝統の中に立っている」や「Architektur in der Deutschen Demokratischen Republik(ドイツ民主共和国の建築):ドイツ民主共和国の建築プロジェクト、建築、都市計画について解説」などがあり、いずれも社会主義建築オタクにはワクワクする内容です(笑)ただ、ここで深掘りすると永遠に終わりそうにないので、東プロイセンと並んで私のライフワークとして取り置いておくことにします(笑)
これまでこのシリーズでご紹介した町では、マグデブルクのここやこちらなどが典型的なものです。
Platz des Gedenkens…追憶広場とか追悼広場で、戦没ソ連兵士の慰霊塔が立っています。元々は別の場所(2か所)に集団墓地があったところ、そこが製鉄所の立地場所となったため遺体を掘り起こし、改めてここに埋葬し直し慰霊塔を建てたものです。市の公式サイトによれば:
「アイゼンヒュッテンシュタット フュルステンベルク(オーデル州)の旧 STALAG III B捕虜収容所出身の4,000人以上のソ連軍捕虜が、ソ連軍慰霊碑の下の Platz des Gedenkensに埋葬されている。赤軍兵士たちは 1941年から 1945年にかけて、虐待、飢餓、病気のために死亡し、捕虜収容所近くの 2つの集団墓地に埋葬された。製鉄所コンビナート建設に伴い、死者は 1951年に掘り起こされ、住宅街に埋葬された。
2013年以降、アイゼンヒュッテン・シュタットの死者 4,000人の身元が明らかになった。彼らの名前は、ブランデンブルク州とロシア連邦大使館の支援により、墓地に刻まれている。資金援助は、墓地法第 10条に基づき、ドイツ連邦共和国から提供される。工事期間は 2023年 10月から 2024年 5月までの予定。工事はオベリスクの後方で行われる。このため、上記期間中、土工事と基礎工事のための障壁が設置される」
また別のページには:
2013年以降、冷戦終結に伴う公文書の公開に伴い、長年にわたる調査作業により、STALAG(捕虜収容所)の集団墓地に埋葬された 4,109名の匿名死者の名前の大半を特定することが可能となった。ドイツ墓地法によれば、現在判明している名前は墓地で不朽のものとされなければならない。ブランデンブルク州は、この義務をアイゼンヒュッテン・シュタット市に委任した。2019年 4月、関連する記念碑保存当局と設計案が合意され、2021年 11月以降、建設プロジェクトの実現のためにオーデル・シュプレー地区から助成金が受けられるようになった」
この紹介シリーズでこれからも旧東独の小都市を数多く紹介していきますが、旧東独地域には至る所に戦没ソ連赤軍兵士の墓地や慰霊碑があり、そういうものはソ連崩壊後も後継国家ロシア共和国とドイツ連邦共和国の間に締結されている条約で保護され、維持メンテ・清掃・献花などがドイツ側に義務付けられているのです。その義務はプーチンがウクライナに侵攻したからといっても維持されます。まあ、直接ドイツや NATO同盟国を攻撃したら条約破棄は出来るのでしょうが・・・
↑↑ 旧東独によくある「様々な職業を描いたモザイク壁画」やその建物も修復されています。また建物の入り口も修復が進んでいます。↓↓
★★アイゼンヒュッテンシュタット Eisenhüttenstadt -11- に続きます