- 2021-6-27
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前項ではスキップしましたが、目抜き通り「Breiter Weg」について書きます。私が初めてこの町を同僚たちと訪れたのは 1990年 9月 30日、ドイツ統一を 3日後に控えた、旧東独(ドイツ民主共和国 DDR)最後の瞬間でした。通貨統合は既に 7月 1日に行われ、経済の立て直しには何らかの動きが始まっていたものと思われますが、まだ本格的な復興に向けての具体的な動きは始まる前でした。通りに走る車は、有名なトラバントの群れに、往来が自由になった西側からの「高級車」が加わりつつありましたが、路面電車やバスなどはまだ東側のものでした。もちろん建物の補修や、スクラップ・アンド・ビルドはまだ始まる前でした。
↓↓ 街中を歩いた時に自分で撮影した写真が残っておらず、こちら(ddrcildarchiv.de)からの借用となりますが、正しくこういう印象でした。東京や西独の大都市と違って、ビルに全く商業広告が無い・・・それに逆に違和感を覚えた記憶があります。この建物は「Blauer Bock」という名称が付いていたようです。
↓↓ これはこちらからの借用となりますが、やはり広い大通り(Breiter Weg)に面して旧東独風の「Plattenbau」と呼ばれるプレファブ工法の高層住宅が建っています。やや不思議な形をしたオブジェのある噴水も旧東独独特の雰囲気を醸し出しています。
↑↑ そもそも Breiter Wegは、戦前はこのようなバロック様式の重厚な建物が立ち並ぶマクデブルク随一の目抜き通りでした。それが爆撃によって灰燼に帰し、戦後 1949年のドイツ民主共和国(旧東独)の成立を経て本格的な再建が始まります。
その際、「Sozialistische Stadt」という概念で街づくりが行われました。「社会主義都市とは、計画論や都市計画史の用語で、社会主義の文化的・遺伝的な都市タイプを表す言葉である。社会主義の社会モデルに基づいて、ある種の都市計画の考え方が、この時期に変化したソ連や東欧圏の都市に反映されました。このように、理想的な都市の伝統を受け継いでいます。」(独語Wikipedia)
Von Bundesarchiv, Bild 183-08718-0004 / Biscan / CC-BY-SA 3.0, Link
Breite Wegは多くの旧東独の都市のメイン通りがそうだったように Karl-Marx-Straßeと改名され、社会主義様式で「理想の町づくり」がなされます。私の訪問時はまだ Karl-Marx-Straßeと呼ばれていたはずで、その後元の Breiter Wegというに戻されています。この戦後再建期の画像は Bundesarchivに沢山の画像が残されていますが、いかにも社会主義国家建設期!という印象です。
↓↓ 「”Hier begann im jahre 1951 der Neuaufbau der am 16.1.1945 zerstoertrn Stadt” 1951年、ここに於いて 1945年 1月 16日に破壊された町の再建が始まった」と書かれています。「VEB SPEZIALBAUKOMBINAT MAGDEBURG」という、再建をミッションとする人民公社が設立され、マクデブルクの復興を推進したようです。
完成直後の風景は、戦前とは全く違った景色になってしまったものの。社会主義の理念を体現した理想都市に見えます。が、私が訪問した時には、既に耐用年数が迫っていたか過ぎていたと思われ、壁などが傷んでいましたが、それが補修もされず放置され、コンクリート版で舗装された歩行者天国も、あちこちに穴が開き歩きづらかったことを記憶しています。
そして、東西ドイツ統一後に、耐用年数を終えた建物は補修されたり、取り壊されたり、新たな建物が建てられたりしています。
↓↓ ここからは GoogleMapのストリートビューの画像を南から北に並べておきます。大聖堂の南の方はまだ再開発途上のようです。こういう経緯で、町の景観の統一などは残念ながら望むべくもありません。