誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(56):★デッサウ Dessau -8-

★デッサウ Dessau -7- からの続きです

かなり大きそうな町なので、劇場の前から路面電車に乗って、一気に南下し、そこからまた北上して、町の印象をつかもうと思います。路線図はクリックすると拡大します。時間があれば終点までずっと乗って行って折り返しながら適当なところで降りるという方法もあるのですが、今回はとりあえず Theaterから Am Alten Wasserturmまで乗ってみます。古い水道塔かなんかあるんだろう・・・知らんけど(笑)

Alter Wasserturm Dessau

1870年代、当時アンハルト公国の首都であったデッサウに初めて水道網が敷かれ、1615年まで遡ることができる木管や公共の井戸に基づくものではなくなった。旧市街の南にある給水塔は、この新しいネットワークの一部として 1875年に建設されたものである。しかし、その水は非常に腐りやすく、わずか 20年後に旧給水塔から 500メートルしか離れていない新給水塔が建設された。

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1930年にデッサウの水道は再建され、2つの給水塔はほとんど使われなくなり、荒廃していった。1939年には、ポンプが均圧装置の役割を果たすようになったため、給水塔も役割を失った。

1999年から 2002年にかけて、給水塔が再建され、ザクセン=アンハルト州のデッサウ部門の公文書館として拡張された。この公文書館は、それまでオラニエンバウム城にあり、特にアンハルト州文書館とデッサウ行政区などの一部の領土継承者のコレクションを含んでいた。このコレクションは、第二次世界大戦で大きな被害を受けたツェルブスト宮殿を起源としている。さらに、現在のザクセン=アンハルト州領域における郵便・鉄道システムの歴史に関する資料の収集は、デッサウの地で行われている。

2016年、デッサウ・ロースラウ市の公文書館は、スペースの問題に悩まされていたため、旧水道塔の敷地も提供された。市立公文書館は14室を専有し、閲覧室を含む33室は両公文書館で共有している。以来、市政資料室の歴史資料室は給水塔に、暫定資料室はランゲ・ガッセの旧敷地に置かれている。2017年4月3日に閲覧室の開館が行われた。

2020年以降、Palais Dietrichの回収期間中は、そこの Anhaltischen Landesbücherei Dessauの科学図書館の所蔵品も旧水塔に収容されている。

建物概要:八角形の給水塔の1階には共同閲覧室がある。現在、外側のファサードは基本的に付属の階段で特徴付けられ、塔との間には増築部分の棚室もある。ここでは、最適な空調を実現するために窓をなくし、ケルンモデルとしている(ケルン市歴史資料館)。特殊なフォーマットは、この目的にも適しているタワーシャフトに収容された。Heidestraße 21の給水塔は建築モニュメントとして登録されており、094 40095という番号でモニュメント登録されている。

右の航空写真で。青い点が連なっていり一番下で路面電車を降りで、そこから三田に向かった真直ぐ(交差点にある赤いマークを目指して)北に歩きます。

道路の両脇の建物は歴史的なものはあまり残っておらず、戦後に社会主義政権下で建てられた高層住宅などが多いです。かなり手酷く爆撃で破壊されたことが伺い知れます。

今、歩いているのは Franzstrasseですが、それと Askanische Strasse(アスカニア通り)の交差点に、特徴的な塔を持った建物が見えています。

Museum für Naturkunde und Vorgeschichte(自然史・先史学博物館)

1927年以来、博物館の本拠地として使用されている Leopold-Dank-Stift Dessau-Roßlauにある市立の自然史・先史学博物館。1927年に設立され、考古学、古生物学、地質学、植物学、動物学に関するコレクションを所蔵している。

この博物館は、前章で触れた「文化遺産の絶滅危惧種」のレッドリストに掲載されており、公式サイトには「博物館は死んではならない!」という刺激的な画像がアップされています。

✙✙ Wikipediaの解説は長くなるので折りたたんでいます。展開するにはこちらをクリック下さい

1875年には、デッサウ近郊の Schloss Großkühnauに、デッサウとロスラウの公爵コレクションを統合した自然史・先史時代のコレクションが設立されていた。1878年、ケーテン・コレクションが加わった。1900年以降、このコレクションは十分な手入れができなくなったため、1919年にツェルブスト城博物館に移されたが、1945年の空襲でほぼ完全に破壊された。

1901年、市立の考古学コレクションが設立され、当初は新市庁舎に収蔵された。1907年にハンス・ゼールマンの個人コレクションを購入し、1908年から1911年にかけて行われたアンハルト歴史協会による発掘調査によって、大規模な拡張が行われた。この時、コレクションは短期間ながら郷土資料館の一部となったが、1919年には早くも再び分割されることになった。このコレクションの大部分はツェルブストに移されたが、考古学、地質学、自然科学の所蔵品はデッサウに残された。これらは当初、ヨハニス通り13番地に保管され、1927年に設立・開館した自然史・先史学博物館の基礎となった。博物館は、1746年から1750年にかけて建設されたアスカニッシェ通り32番地の Leopold-Dank-Stift(レオポルド・ダンク・シュティフト)の中にあり、現在もそこに置かれている。以前は Anhaltische Kunsthalle(アンハルト美術館)が入っていた建物である。1900年、用途変更に伴う建物の改造は、公爵府・建築審議官であったグスタフ・タイヒミュラーによって設計された。

初代館長はハンス・ゼールマンであったが、ユダヤ人の家系であることを理由に1936年に解任された。先史時代のコレクションの管理は、ケーテンに住んでいたヴァルター・ゲッツェに移された。第二次世界大戦中、コレクションの一部は倉庫から移された。しかし、1945年3月7日の空襲で建物は全焼し、大きな被害を受けた。

再建後は 1948年に既に展覧会を開催することができた。同年、アルフレッド・ヒンシュが美術館の運営を引き継いだ。1950年代以降の新たな発掘調査によって、博物館の所蔵品をさらに充実させることができたのである。1960年、新しい常設展示が開始された。1992年、建物の改修工事のため一時閉館を余儀なくされた。1998年に再オープンした。

現在、美術館は閉鎖の危機に瀕している。2018年にエルンスト・ゲルグナー館長と先史時代コレクション責任者のハンス=ペーター・ヒンツェがともに退任した後、どちらのポジションもまだ埋まっていない。2019年3月に発表されたデッサウ=ロスラウ市の文化開発計画では、レオポルド・ダンク=スティフトからの移転が想定されているが、これまでのコレクションの今後の展示について一貫したコンセプトはないままである。

展示物情報:現在の常設展は、6つのセクションに分かれている。

  • 「Schätze aus dem Untergrund(地下の宝物)」では、先史時代の更新世を中心に、石炭林の復元や氷河期の巨大動物などを展示している。
  • 「Menschenspuren – Eiszeitjäger, erste Bauern und Bronzegießer(人類の即席:氷河期の狩人・最初の農民と青銅器の鋳物職人)」 は、氷河期から新石器時代、青銅器時代までの人類の先史時代を復元品と考古学的発掘品で表現している。
  • 「Das Dessauer Land von der Germanenzeit bis zur Stadtgründung(ゲルマン時代から都市建設までのデッサウの土地 )」では、鉄器時代から13世紀までの地域の歴史を考古学的発掘物によって示している。
  • もう一つの分野は、鉱物コレクションです。
  • 「Ein Gang durch die Erdgeschichte(地球の歴史の散歩道 )」はタワー内にあり、原始時代から更新世までの6つのフロアで化石を展示している。
  • 「Faszination Natur – Von Anemone bis Zwergrohrdommel(自然の魅惑:アネモネからヒメヨシゴイまで)」では、生物圏保護区「エルベ川景観中流域」の生息地をいくつかのジオラマで紹介している。

この博物館はTörtener Straße 44に分館を構えている。

交差点の近くの建物の壁に「Das alte Dessau」というタイトルで、こういう金属細工が埋め込まれています。一見、旧東独時代のアートのように見えますが、よく見ると「階級闘争の敵ブルジョア」っぽいオジサンも描かれています(笑)こんなのは旧東独では許されるはずはない・・・ということは、東西統一後の作品なんでしょうか?謎です。

同じく、交差点の近くにこんな大きな写真パネルと解説板が掲げられています。有名な航空機ユンカースの拠点だったので、複数回の激しい爆撃を受けています。(爆撃の詳細は独語 Wikipediaに解説があります(Luftangriffe auf Dessau)

バロック様式や古典主義様式の建物や宮殿は、かつてアンハルトの侯爵や公爵の居住地であったこの街の中心部を特徴づけていた。現在では、「歴史的」なデッサウのオリジナルな証拠は、ほんのわずかしか残っていない。1945年3月7日、市街地の80%以上が破壊された。爆弾投下の一夜で668人が死亡した。国家社会主義下でナチスの軍需産業の中心地であったこの街に、戦争が戻ってきたのである。1932年には早くも NSDAPが率いる最初の州政府がここに置かれ、1933年からはナチス政権がユンカース・ヴェルケを引き継ぎ、軍需品の生産が行われるようになった。3月7日はデッサウの追悼の日。午後9時45分、市内のすべての鐘が鳴り響く。彼らは破壊を思い起こし、平和と寛容の必要性を訴える。

★デッサウ Dessau -9- に続きます

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