- 2023-2-10
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後になって気が付くのですが、あの交差点で右折(教会の建物が見えている方向)すればよかったんですが、私はここで、路面電車から見えた Bauhaus Museumに行ってみようと、左手方向に歩きます。右折していたら見えたであろう風景は・・・
あの交差点を右折していれば、ムルデ川を渡って対岸から ↓↓ こういう風景が見られたのです。アンハルト・デッサウ公国のレジデンツシュロス・マリエン教会・ラートハウスをセットで見ることが出来るという・・・なんともゴージャスな!ちゃんと下調べしてから行けよなあ、自分(笑)
Residenzschloss Dessau(デッサウ城・宮殿)は、Stadtschloss Dessauとも呼ばれ、アンハルト・デッサウの侯爵や公爵の住居として使用されていた旧デッサウ旧市街のエリアに唯一部分的に保存されている宮殿建築である。複数の翼を持つ宮殿群のうち、現在残っているのは、いわゆる Johannbau(ヨハンバウ)と呼ばれる、かつての西翼と最古の部分だけである。中央ドイツで最初に建てられたルネサンス建築の一つである。(独語 Wikipedia)
デッサウを襲った空襲でかなりの部分が破壊され、現在残っているのは、アンハルト公ヨハン4世にちなんで名づけられた「Johannbau」という部分のみです。「建設は1528年には始まっていたヨハン・バウの様式はルネサンス初期に遡り、丸いアーチ型の破風、窓、門扉、祭壇、その上にそびえる螺旋石などの建物装飾には、球体やユリ模様のフリーズなど特徴的なものが見られる。その形式は、後期ゴシックからルネサンスへの過渡期に相当し、サザクセン・ルネサンスの他の初期の建築物にも見られる」とあります。
マリエン教会は、ザクセン=アンハルト州デッサウ=ロースラウ市の中心部にある神聖な建物で、かつて城と町の教会で、もともとはカトリック、1534年以降はプロテスタントであり、現在はイベントセンターとして利用されている。1945年3月のデッサウ空襲で破壊され、再建されたのは1990年代に入ってからである。
1263年、最初のロマネスク様式のマリエンキルヒェが献堂された。1506年5月25日、アンハルト・デッサウ公エルンストは、ハレ議会の建築家ウルリッヒ・フォン・シュミーデベルクの指揮のもと、ロマネスク様式の建物に代わる新しいゴシック様式の教会建設のための礎石を据えた。
王子の死後、妻のマルガレーテ・フォン・ミュンスターベルクが完成を見届け、1523年10月15日にマインツおよびマクデブルクのアルブレヒト枢機卿のもとで祝別された。
教会は 1540年から 1541年にかけてメルキオール・ヴィルダーとルートヴィッヒ・ビンダーによって丸天井にされ、1551年から 1554年にかけて西塔が追加された。ルートヴィヒ・ビンダーは 1553年にもう一つのギャラリーを増築し、そこには若き日のルーカス・クラーナハの流派によるスパンドレル画が飾られていた。
内部はフランツ公の時代、1780年から 1784年にかけてゲオルク・クリストフ・ヘセキエルによって改修された。宮殿と町の教会として、聖マリアは、今日のデッサウ動物園に新しい霊廟が建てられるまで、アスカニア公国の公爵たちの埋葬場所であった。1848年から 1850年にかけて、塔の1階に地下室が作られた。塔の北側にある地下室の入り口は 1850年から 1852年にかけて作られたものである。
マリエン教会は 1945年3月7日の空襲で塔と周囲の壁、内部の柱を除いて破壊され、内部の調度品も失われて焼失した。1540年製の砂岩の説教壇、1533年製のルードヴィッヒ・ビンダー製の洗礼盤、リュールマン製のオルガンが破壊された。八角形の頂部を持つ非常用の屋根で固定されていた塔はそのまま残り、塔両側の半分が装飾された破風も残った。1983年3月1日にデッサウ市議会に譲渡され、1989年から 1998年にかけて再建され、以来、コンサート、演劇、特別展など、文化的な目的のための公共の場として使用されている。その過程で、ランタン付き塔のウェールズ風ドーム、急勾配の切妻屋根、横長の家屋風別館上部の三角形の飾り破風が復元されたのである。