誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(56):★デッサウ Dessau -6-

★デッサウ Dessau -5- からの続きです

展示の中に戦時中・戦後の荒廃した時の写真があります。よくぞ取り壊されず生き延びたものだと思います。今回はデッサウ以外のバウハウス関連の建築もご紹介します。

ヒトラーが政権を握る前の 1931年、デッサウの市議選でNSDAPは36議席中15議席を獲得し、議会で最も強いグループとなった。1931年10月25日、NSDAPは選挙用のビラの中で、8項目のうちの第1項として次のように要求した。

「バウハウス への全支出を即時中止せよ 外国人教師は予告なしに解雇される。ドイツ国民が飢えているのに、飢えた国民の税金から外国人に過剰な給与が支払われるのは、自治体の優れた指導者が国民に対して負うべき責任と相容れないからである。ドイツ人教師は、自治体の斡旋でデッサウや他の場所に異動されることとする。バウハウスにある職人学校の宿泊施設は、別の場所に用意される。バウハウスの取り壊しを直ちに開始すること

NSDAPは 1932年1月21日の市議会で建物の取り壊しを要求した。これと支出中止の判断は辛うじて回避された。1932年7月8日、アンハルト自由州の首相に選ばれた国家社会主義者アルフレート・フレーベルクと、国家社会主義者の芸術理論家・建築家パウル・シュルツェ=ナウムブルクがバウハウス・デッサウを訪問した。その間に市議会の議決状況が変わったため、1932年8月22日、NSDAP議会グループの要請でバウハウス閉鎖が決定されたのである。ミース・ファン・デル・ローエは、それでもバウハウス・ベルリンをベルリン・ランクヴィッツの私立研究所として存続させようとしたが、1933年には早くも国家社会主義者によって解散を余儀なくされた。

しかし、結局この建物は取り壊されることはなかった。デッサウ・バウハウスの建物は、ナチス時代にはさまざまな施設に使われた。美術工芸学校は北棟に残り、労働局は地下の旧染料工場の部屋を使い、ドイツ技術者協会のロケット技術研究所は遅くとも 1933年3月からは工作棟の地下の部屋を使い、後には旧金属工房も使った。1933年4月からは、かつて労働局として使われていた場所と、その上階を国立女性労働局が引き継ぐことになった。また、4月からは農村女性労働学校が工房棟、中間棟、アトリエ棟を引き継いだ。1933年10月からは工房棟の一部がマクデブルク=アンハルト地区の幹部養成学校として使用され、1938年に農村女性労働学校が移転した後は、そのスペースも使用された。

戦争が始まると、1939年9月からユンカース・ヴェルケ社がこの建物の大部分を使用し、1940年からは内部を改造してオフィスや研究スタジオを建設した。1941年7月から10月にかけてカモフラージュ塗装が施された。1945年3月7日のデッサウ空襲で、工房棟は焼夷弾の直撃を受け、前面のガラス窓が破壊された。北棟と管理棟も大きな被害を受けた。

1990年に初めて訪問した時にもこのカフェはありましたが、もっと素朴な印象でした。

折角の機会なので、デッサウ以外にも私が実際に行ったバウハウスやその関連の建築物などをご紹介します。

Haus des Volkes (Probstzella)

記事はこちら

Villa Thugenthat (Brno)トゥーゲントハット邸

↓↓ 本来は前日までに予約が必要なのですが、知らなかったので「日本からこれを見るためにやってきたんです!」と泣き落としで入れてもらいました(笑)入場券とカタログです。

Bauhaus-Archiv Berlin公式サイト

【オランダ・ユトレヒトRietveld-Schröder-Hausシュレーダー邸

この時期、ドイツに限らずヨーロッパのあちこちで新しい様式のデザインや建築が展開されていました。隣国のオランダでも「デ・ステイル(De Stijl)」があり、バウハウスにも大きな影響を与えたとされています。ユトレヒトにはヘリット・リートフェルトの設計した「シュレーダー邸」や、De Stijlの影響を受けたディック・ブルーナの博物館があります。

建築本って、つい衝動買いしてしまうんです・・・写真が多く、重いのでその後の旅程がかなり苦しくなるんですが(笑)

駅までの帰り道はこんな感じです。

★デッサウ Dessau -7- に続きます

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