- 2022-12-17
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兄系ロイス家の侯女5人の末っ子、五女の Ida(Fürstin Ida zu Stolberg-Roßla)について書いてプリンセスシリーズを完結させておきます。写真に写っている5人の中で最も幼い女の子です。
Fürstin Ida zu Stolberg-Roßla
1891年夏、母の公爵夫人イーダは身重で、第6子の誕生を控えていた。出産前の数週間で王女は衰弱し、侯国庭園の宮殿での療養生活は切り上げられた。イーダは、1891年9月4日にグライツ宮殿で日の目を見た小さなお姫様の名前で母と同じ名を付けられた。出産の喜びもつかの間、母のイーダは 1891年9月28日にハインリヒ22世の妻はまだ39歳という若さで亡くなった。父ハインリヒ22世の死後、ビュッケブルク家の親族は遺児の運命を舵取りする。
1911年11月6日、グライツ王宮に再び貴族の華やかなイベントがやってきた。この日、20歳 イーダは、クリストフ・マルティン・ツー・シュトルベルク=ロスラ伯爵(Christoph Martin Graf (seit 1916 Fürst) zu Stolberg-Roßla (* 1. April 1888 in Roßla; † 27. Februar 1949 in Ortenberg))と結婚する。祝賀会は、侯国公園内の宮殿で行われた。二人にはクリスチーネ、マリー=エリザベート、ハインリヒ・ボトー世襲王子、ヨハン・マルティン王子の4人の子供が生まれる。後者が生まれる少し前に、両親はポツダムからハルツ山地のロスラに住居を移した。
しかし、クリストフ・マルティン・ツー・シュトルベルク=ロスラ皇太子夫妻は、Idaの故郷とは連絡を取り続けた。君主制終了後も、ブルク城とその関連土地は、兄系ロイス家に残された。1933年末までは、イダとヘルミーネ姉妹が共同所有していたが、その後、ブルクはシュトルベルク=ロスラ公爵家の単独所有となった。
第二次世界大戦末期、イーダは姉で、再婚相手の元ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に先立たれた未亡人のヘルミーネをロスラで引き取ることになる。アメリカ人が領土をロシア人に引き渡すことになることは知られていたが、イーダは姉に一緒に西に行くよう説得することはできなかった.
1977年3月29日、ロイス・グライツ家の6人の子女の最後の一人であるイーダ・ツ・シュトルベルク=ロスラは、新たに居を構えたヘッセン州のオルテンベルクで永眠した。
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以上、ロイス・グライツ侯国末期の5人のプリンセスの、それぞれの運命のストーリーでした。ちなみに本来は世継ぎとなるはずだったところ、統治能力無しとされてしまったハインリヒ24世は、子供の頃に「斜視を電気ショックで治療する」という、今では考えられない治療法によって事故にあい、それ以来知的障害を負ってしまったとのことです。
さて、プリンセスの項目でかなりのスペースを取ってしまったので、博物館の展示物についてはスライドショーでご覧ください。まだ上の城(Oberes Schloss)にも行かなくてはならないので・・・
この自動車はかつてグライツに存在した「Freia Automobil-AG」という自動車製造・販売会社のものです。「・・・経済的な理由から、Freia社は1927年に生産を終了せざるを得なくなった。Arthur Schuh は Jørgen Skafte Rasmussens DKW-Konzernに移り、ツヴィッカウでアウディの技術責任者となった。現在、フライア車は2台が現存していることが確認されている。」とあります。