誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(51):★★★グライツ Greiz -8-

★★★グライツ Greiz -7- からの続きです

Caroline Elisabeth Ida Reuß zu Greiz (* 13. Juli 1884 in Greiz; † 17. Januar 1905 in Weimar)

右の写真はどことなく愁いを帯びた表情の三女 Carolineですが、長女 Emma、次女 Marieとは異なり、Carolineは、相手の家柄こそ申し分なく、むしろ格上で、所謂「玉の輿」に乗った形だったものの、その結婚生活は Carolineの自殺という悲劇的な結末を迎えることになります。

1905年 1月、結婚してからまだ2年も経たないうちのことで、僅か20年の儚い生涯でした。

このあたりの経緯は日本語 Wikipediaに詳しい記事がありますので下記に引用しておきます。独語版はこちらです。

兄系ロイス侯ハインリヒ22世とその妻でシャウムブルク=リッペアドルフ1世ゲオルクの娘であるイーダ英語版の間の三女として生まれた。1903年4月30日にビュッケブルクにおいて、ザクセン大公ヴィルヘルム・エルンストと結婚した。父が前年に他界しており、兄ハインリヒ24世は重度の知的障害者だったため、婚儀はやむなく母イーダの実家であるビュッケブルク宮廷の世話で行われたのである。結婚式にはオランダ女王ウィルヘルミナとドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も出席した。

Prinzessin Caroline Reuß zu Greiz, Großherzogin von Sachsen-Weimar-Eisenach

2人の姉たちがいずれも身分の低い男性と恋愛結婚をしていたこともあり、カロリーネは自分だけが王侯間の政略結婚の犠牲になることを嫌がって、この縁談に抵抗した。彼女は婚約中はヴィルヘルム・エルンストに冷たく接し、婚礼の前夜、仲人役の皇帝ヴィルヘルム2世にこの縁談を差し戻すように嘆願した。皇帝はスキャンダルを嫌って彼女の願いを聞き入れず、帝国大元帥としてヴィルヘルム・エルンストに向かって「結婚しなさい」と命令を下した[1]

大公妃として社会福祉活動を熱心に行い、領民から「ヴァイマルの星(Stern von Weimar)」と呼ばれて慕われた。また、夫の呼び寄せたマックス・リーバーマンマックス・クリンガーハリー・ケスラー英語版アンリ・ヴァン・ド・ヴェルドといった文化人、芸術家、建築家にも援助を惜しまなかった。一方、粗暴で短気なヴィルヘルム・エルンストとの結婚生活は極めて不幸なもので、夫妻の間には子供も生まれなかった。激しい夫婦喧嘩が繰り広げられ、カロリーネは何度も脱走を試み、やがて鬱病に陥った。ヴァイマル宮廷からの脱走計画が失敗した後、大公妃は信頼する女官ベルンシュトルフ伯爵夫人(Gräfin Anni von Bernstorff)や侍従長メデム伯爵(Graf Medem)からも遠ざけられた。

カロリーネは結婚から2年も経たないうちに、20歳で死去した。死因は公式発表では急性肺炎とされたが、彼女の死に関する報道は、大公妃が自ら命を絶ったことをほのめかしていた[2][3]。カロリーネはヴァイマルの大公家霊廟(ドイツ語Weimarer Fürstengruft)に葬られた最後の人物となった。夫は1910年にザクセン=マイニンゲン公女フェオドラと再婚した。

アポルダのカロリーネ館(Carolinenheim)、カイチュ(Kaitsch)のカロリーネ塔(Carolinenturm)、ヴァイマルのカロリーネ遊歩道(Carolinenpromenade)、アイゼナハのカロリーネ橋(Carolinenbrücke)は、いずれも大公妃カロリーネの名を冠している。

Hermine, Prinzessin Reuß ältere Linie (* 17. Dezember 1887 in Greiz; † 7. August 1947 in Frankfurt (Oder))

四女の Hermineは兄系ロイス家の五姉妹の中でも、最も有名な相手と結婚した女性でしょう。最初の結婚相手はシュレジエン(現ポーランド領)の貴族でしたが、結婚 13年目の 1920年に死別します。そしてその後、1918年の第一次世界大戦の終結時に皇帝位を退位し、オランダに亡命していた元ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の後妻となるのです。

ヘルミーネ・ロイス・ツー・グライツドイツ語Hermine Reuß zu Greiz1887年12月17日 – 1947年8月7日)は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の2番目の妻。ヴィルヘルム2世の退位後に結婚し、名目上のドイツ皇后およびプロイセン王妃の称号を使用した。

生涯
ヘルミーネはロイス=グライツ侯ハインリヒ22世と、その妃でシャウムブルク=リッペ侯アドルフ1世の娘であるイーダとの間に生まれた。父はテューリンゲン地方のロイス=グライツ侯国(兄系ロイス侯国)の支配者であった。ヘルミーネは1907年1月7日にシュレージエン地方の領主シェーナイヒ=カロラート侯爵家の公子ヨハン・ゲオルク(1873年 – 1920年)と結婚し、間に3男2女をもうけたが、1920年に死別した。

1922年1月、ヘルミーネは元皇帝ヴィルヘルム2世の誕生日を祝うため、息子と一緒にオランダドールンを訪れた。ヴィルヘルム2世はヘルミーネに惹かれ、彼女との会話を大いに楽しんだ。二人には共通点も多く、またヘルミーネは1年半前に、ヴィルヘルム2世は9か月前にそれぞれ連れ合いを亡くしていた。

ヴィルヘルム2世はすぐにヘルミーネとの再婚を決意し、帝政支持者や息子たちの反対を押し切って、1922年11月9日に27歳も年の離れた未亡人ヘルミーネと結婚式を挙げた。ヴィルヘルム2世は63歳、ヘルミーネは35歳であった。二人の間には子供は生まれなかったものの、二人の結婚生活は疑いの余地なく幸福なものであった。ヘルミーネと前夫の末娘ヘンリエッテ・フォン・シェーナイヒ=カロラート(1918年 – 1972年)は、1940年にヴィルヘルム2世の孫息子カール・フランツ・ヨーゼフ王子と結婚した。

1941年にヴィルヘルム2世に先立たれると、ヘルミーネはシュレージエンにあった最初の夫の所領に引退した。6年後の1947年、ヘルミーネはソ連占領地域となっていたフランクフルト・アン・デア・オーダーにおいて、自宅軟禁状態に置かれたまま死んだ。彼女の遺骸はプロイセン王家の者の眠るポツダムのアンティーク・テンプルに安置されている。(日本語 Wikipediaより・ドイツ語版はこちら
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こういうサイトがあります(ロゴをクリック下さい。)1900年ごろの状況に即して、ドイツ帝国の状況や、その構成国の状況を詳しく解説しています。オーソドックスな解説というより、やや柔らかめの解説のようです。この中に兄系ロイス家の記述もあり、その中から「ほう!」と思った部分を抜き出して、Wikipediaなどと併せて再構成してみます。

★ 兄系ロイス家のハインリヒ22世(在位1859-1902年)は1859年に父のハインリヒ20世が無くなると 13歳で侯位を継いだが、21歳になるまでは母親のカロリーネ(ヘッセン=ホンブルク方伯の娘)が摂政として国政を取り仕切った。カロリーネは夫も父もオーストリア帝国軍の将軍だったため、非常に強い反プロイセン意識の持ち主だった。この反プロイセン意識は息子のハインリヒ22世にも受け継がれた。

★ このため、1866年に普墺戦争が始まると、プロイセンは、この小さな侯国を併合するために、400人の兵士と50門の大砲でこの国を占領した。ロイスが独立した侯国として存続できたのは、外交手腕と弟系ロイス家、そして勝利側として戦ったザクセン・ヴァイマール・アイゼナッハ大公の介入によるもので、そうでなければプロイセンに吸収されていただろう。その条件とは、カロリーネが退位し、息子のハインリヒ22世が後を継ぐことであった。また、10万ターラの罰金(うち5万ターラは王侯貴族が私財を投じて支払った)が科せられた。1867年に北ドイツ連邦共和国に加盟したのは、当然の成り行きであった。

★ 兄系ロイス家の長女と次女は政略結婚ではなく、自らの意志による恋愛結婚を貫いたが、三女のカロリーネはそれを許されず、兄系ロイス侯国が普墺戦争の際にプロイセンに占領・併合から救うのに尽力した弟系ロイス家のハイリンヒ14世の意向で、その際に恩義のあったザクセン・ヴァイマール・アイゼナッハ大公(ヴィルヘルム・エルンスト)に嫁がされる。カロリーネは抵抗したが、仲人役のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世もスキャンダルを嫌い結婚を命じる。そして、その政略結婚はカロリーネの自殺という悲劇に終わる。

★ その後、第一次世界大戦が始まり、1918年 11月、件のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位してオランダに亡命する。そしてオランダの亡命生活中に妻を亡くした元皇帝と、なんとカロリーネの妹のヘルミーネ(兄系ロイス家四女:彼女もシュレジエンの地方貴族だった夫を亡くしていた)が意気投合し、ヘルミーネは元皇帝の後妻となる・・・なんという歴史のいたづら・・・

★★★グライツ Greiz -9- に続きます

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