誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(22):★★★バート・ランゲンザルツァ Bad Langensalza -5-

★★★バート・ランゲンザルツァ Bad Langensalza -4- からの続きです

Bergkirche St.Stephaniから少し町はずれを歩きます。まあ地図で見ると「はずれ」というほどにはハズれてはいませんが・・・かつては店舗や醸造所だっと思われる建物に書かれた屋号なども薄れていたりする、ちょっと枯れた感じの一角です。ここには「ユーデンガッセ Jüdengasse」という、かつてユダヤ人が集まって暮らしていた通りもあります。

上の地図で、青点で示したルートの上半分を、Bergkirche St.Stephaniから東方向(右方向)にぶらぶら歩きます。

↓↓ 下のスライドショーの3枚目・4枚目の左手に写っている白っぽい建物は Schloss Dryburgと推定されます。独語 Wikipediaの解説には「テューリンゲン州ウンストルート・ハイニッヒ地区のバート・ランゲンザルツァで現存する最古の住宅です。かつては濠と外壁ぼある城塞だった L字型の間取りの 4階建ての建物です」とのことで、旧市街ではラートハウスと並ぶ大きな世俗的な建物(教会や修道院ではないということ)ということです。気が付けばちゃんと写真を撮っておけばよかった(笑)

ユーデンガッセ Jüdengasse

「ユーデンガッセ」というのがあります。ユダヤ人横丁・・・有名なフランクフルトのユーデンガッセは Judengasseですがここのはウムラウトしていて Jüdengasseとなっています。しかし・・・発音の差は難しいよな(笑)

「Jude Bad Langensalza」で検索してみるとこんなサイトがヒットしました。”Alemannia Judaica” Arbeitsgemeinschaft für die Erforschung der Geschichte der Juden im süddeutschen und angrenzenden Raum (ドイツ南部とその周辺地域のユダヤ人の歴史に関する研究ワーキンググループ)の一部です。

嘆きの門は、大部分が保存されている都市の要塞の一部です。Das Klagetor gehört zur großteils erhaltenen Stadtbefestigung

その一部を試訳しておきます(クリック下さい)

ユダヤ人コミュニティの歴史

バート・ランゲンサルツァでは、中世にユダヤ人コミュニティが存在していました。遅くとも 14世紀の初めにはユダヤ人が町に定住していました。1321年にはマイガー(Meiger)が、1323年にはモーセ・フォン・ザルツァ(Mose von Salza)がエアフルトの家の所有者として名を連ねています。1346年、チューリンゲン方伯とマインツの大司教との間で紛争が発生したため、街は包囲され破壊されましたが、しばらくして再建されました。伝承によると、ユダヤ人が破壊の所為にされ、多くの人が火あぶりの刑に処されたとのことです。

1356年には、テューリンゲンの方伯とマインツの大司教の間でユダヤ人の街への受け入れに関する協定が結ばれました。その後、前述の支配者の保護のもと、いくつかのユダヤ人家族が再びこの町に定住することができました。

15世紀には、現在も存在する町の「ユーデンガッセ」(=「ユダヤ人の小道」)についても何度か言及されています。しかし、ここにあった 28軒の家にはキリスト教の家族も住んでいました。ユーデンガッセにはシナゴーグがありました。ユダヤ人墓地もありました。Jüdenhügel にはユダヤ人墓地もありました。伝承によると、ユダヤ人墓地への道は、それにちなんで名付けられた「嘆きの門 Klagentor(上の写真(右))」を通っていました。1418年の納税者名簿には、16、17人のユダヤ人(主に一族の長)が記載されています。当時のユダヤ人コミュニティは約 80人で構成されていました。この町のユダヤ人は、主に金銭取引(金貸し)で生活していました。

1436年、ユダヤ人はランゲンサルツァから追放されました。

ミュールハウゼンのユダヤ人コミュニティに属していたユダヤ人が再び入居できるようになったのは 19/20世紀に入ってからのことです。最初の記録は 1853/54年、ユダヤ人の刃物商が店を開いたことで、当初は彼の居留地に対する町の暴力的な反応を引き起こしました。ユダヤ人の家族/人が更に流入しては来ましたが、当面はランゲンサルザで独自のユダヤ人コミュニティの形成がなされるには至りませんでした。

1933年には実業家、商人、職人、医者など 34人のユダヤ人住民がいました。その後数年の間に、経済的ボイコット、公民権剥奪の増加、抑圧的な措置の結果として、何人かは町を去り、何人かは移住しました。最初の一人は 1933年 11月末に家族とともにアメリカに移住した商人のアーノラ・シェヒター(Arnola Schächter)でした。他の人たちはパレスチナやポルトガルに移住した可能性があります。1938年 6月、ラインハルトブルンナー・ホーフ(Reinhardbrunner Hof)で反ユダヤ主義的な扇動的な展示会が開催されました。1938年 11月のポグロムの際、商人のアルトゥール・ゴスマン(Artur Goßmann)と仕立屋のヤコブ・サロモン(Jakob Salomon)はブッヘンヴァルト強制収容所に強制連行され、数週間拘束されました。ヤコブ・サロモンは Bergstraße 21に店を構え、アルトゥール・ゴスマンは妻のネットヒェン(Nettchen)と一緒に Rathausstraße 6で靴屋を営んでいました。ゴスマン家には、娘のイルマ(Irma)と夫のフリッツ・シュレシンガー(Fritz Schlesinger)、息子のギュンターも(Günther)いました。しかし、未だユダヤ人の全ての運命が解明されたわけではありません。

一部のユダヤ系の人たちも迫害の影響を受けました。例えばパン職人のロータル・カーン(Lothar Kahn)は、ナチスの言葉では「ミシュリング 2世(Mischling II. Grades 第二レベルの混血)」とされていました。彼は 1938年から 1940年までドイツ国防軍に従軍していましたが、1944年末にアウシュヴィッツ強制収容所で殺害されたと推定されています。

バート・ランゲンザルツァで生まれたユダヤ人、或いはそこに長期間住んでいた人は、ナチス時代に死亡した人は:ゲルトルト・ハルトマン Gertrud Hartmann(1907年、バート・テンシュテット出身)、ヤコブ・ヤコブ Jakob Jakob(1899年)、ギュンター・シュレシンガー Günther Schlesinger(1926年)、イルマ(イレーネ)・シュレシンガー・(旧姓ゴスマン) Irma (Irene) Schlesinger geb. Gossmann(1905年)。(出典:Angaben nach den Listen von Yad Vashem, Jerusalem Yad Vashem, Jerusalem und den Angaben des “Gedenkbuches – Opfer der Verfolgung der Juden unter der nationalsozialistischen Gewaltherrschaft in Deutschland 1933-1945″)。

1945年以降:非ユダヤ人の女性と結婚したヤコプ・サロモン Jakob Salomonは、2回の強制収容所生活を生き延びた後、1946年に再びこの町に住みました。

なお、こちらにもこの町のユダヤ人の歴史と「躓きの石」のリストがあります

Jüdengasse 1, 2,3 Bad Langensalza 20180817 001.jpg
CC BY-SA 4.0, Link 私が撮った写真は天気が悪い日で暗く写っているので、公平を期して晴天下で撮られた Wikimediaの Jüdengasse画像を貼っておきます。

「フリーデリケの小城 Friederikenschlösschen」と呼ばれる黄色い建物があります。テューリンゲンの観光サイトによれば「1749年から 1751年にかけて、フリードリケ・フォン・ザクセン=ヴァイセンフェルス公爵未亡人は、町の門にロココ調の宮殿を建て、この町の田園の牧歌的な風景を楽しんでいました。今日、この城は宿泊客向けの案内所やイベントセンターとして、バート・ランゲンサルツァを訪れるすべての人に開放されています。フェスティバルホールでは、演劇や室内コンサートが行われています。ロココ調の建物の地下室では、ジャズコンサートが現在と過去のコントラストを魅力的に演出しています。」とあります。また裏手には公園が広がっています。

★★★バート・ランゲンザルツァ Bad Langensalza -6- に続きます

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