- 2022-7-9
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★★★バート・アーロルゼン Bad Arolsen -6- からの続きです
さて、ヴァルデック家からはもう一人、現在のある国の王室の直系になる女性を輩出しています。その後、今に至るまでのその王室の経緯を調べると、意外なことが分かります。この部屋はその女性が暮らしていた部屋です。
「ヴァルデック・ピルモン家は 7人の皇太子を侯爵した。しかし、最後の侯爵の姉であるエマ・ツー・ヴァルデック・アンド・ピルモント Emma zu Waldeck und Pyrmont(1858-1934)は、家の代表者の中で最も高貴な地位を獲得した。1879年、結婚によりオランダ王妃とルクセンブルク大公妃となった。
夫ウィリアム3世(1817-1890)の死後、1898年に成人するまで、娘のヴィルヘルミナ女王(1880-1962)の代理としてオランダの摂政を務めた。このように、エマはオレンジ家出身の後のすべての支配者の祖先である。」と独語 Wikiperiaにあります。
また、市の公式サイトには「1858年、後にオランダの女王となるエマ・ツ・ヴァルデック・ウント・ピルモント王女がこの城で生まれた。
エマはオランダ王ウィレム 3世と結婚し、娘ヴィルヘルミナを出産することで、オラニエン・ナッサウ王朝の存続を救ったのである。
エマ王妃の摂政は、1890年、オランダ政府と国民に温かく迎え入れられた。エマ王妃は、夫の時代に培われた国民と王室との距離を縮め、女性摂政への遠慮をすべて過去のものとすることに成功したのだ。
彼女は、女性の王位継承を可能にする基本法の改正を勝ち取った。これによって、オランダの4人の女王が連続して即位することになった。」と誇らしげな解説があります。
【オランダ王家(オラニエ=ナッサウ家 (独)Haus Oranien-Nassau (蘭)Huis Oranje-Nassau)1815年以降の当主】
肖像 | 名前 | 生没年月日 | 在位開始 | 在位終了 | 備考 | 家系 |
---|---|---|---|---|---|---|
1772年8月24日 – 1843年12月12日 (71歳没) |
1815年 3月16日 |
1840年 10月7日 |
前総督ウィレム5世とヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセンの子息
退位 |
オラニエ=ナッサウ |
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1792年12月6日 – 1849年3月17日 (56歳没) |
1840年 10月7日 |
1849年 3月17日 |
ウィレム1世とヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセンの子息 | オラニエ=ナッサウ |
||
1817年2月19日 – 1890年11月23日 (73歳没) |
1849年 3月17日 |
1890年 11月23日 |
ウィレム2世とアンナ・パヴロヴナの子息 | オラニエ=ナッサウ |
||
1880年8月31日 – 1962年11月28日 (82歳没) |
1890年 11月23日 |
1948年 9月4日 |
ウィレム3世とエンマ・フォン・ヴァルデック=ピルモントの息女
退位 |
オラニエ=ナッサウ |
||
1909年4月30日 – 2004年3月20日 (94歳没) |
1948年 9月4日 |
1980年 4月30日 |
ハインリヒ・ツー・メクレンブルクとウィルヘルミナの息女
退位 |
オラニエ=ナッサウ |
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1938年1月31日 – (84歳) |
1980年 4月30日 |
2013年 4月30日 |
ベルンハルト・ファン・リッペ=ビーステルフェルトとユリアナの息女
退位 |
オラニエ=ナッサウ |
||
1967年4月27日 – (55歳) |
2013年 4月30日 |
在位中 | クラウス・フォン・アムスベルクとベアトリクスの子息 | オラニエ=ナッサウ |
オランダのオラニエ・ナッサウ家のウィレム3世は 1849年にオランダ国王として即位、1839年にはゾフィー・フォン・ヴュルテンベルクと結婚して3人の男子を設けていたのですが、いずれも夭逝し跡継ぎが絶える危機を迎え、ゾフィーも 1877年に亡くなります。ヴァルデック家のエマは「2年前に最初の王妃ソフィーに先立たれていたウィレム3世に求婚され、1879年1月7日に結婚した。ウィレム3世は数々の女性と不倫を繰り返して『ニューヨーク・タイムズ』紙に「この世代最大の放蕩者」(”the greatest debauchee of the age”)と評され、先だって再婚を申し込んだデンマーク王女テューラやエンマの姉であるパウリーネ(英語版)には断られていた。しかし2人に41歳の年齢差があったこの結婚生活は幸せなもので、ウィレム3世の浮気癖や気まぐれは再婚後には影を潜めた。」
1884年にエンマの義理の息子であるオラニエ公アレクサンダーが病死して、王家にウィレム3世以外の男子がいなくなると、ウィレム3世がエンマとの間にもうけた一人娘ウィルヘルミナがオランダ王位の法定相続人となった。
ウィレム3世は1890年に没し、10歳のウィルヘルミナが女王として即位した(ただしルクセンブルク大公位はナッサウ家の家法に基づき、エンマにとって母方の伯父である元ナッサウ公のアドルフが嗣いだ)。王太后となったエンマはオランダ議会によって摂政に指名され、ウィルヘルミナが成人するまでの8年間にわたり政務を代行した。権威主義的な行動が見られたウィレム3世とは対照的に、エンマは立憲君主制の確立に努めた。
1934年3月20日、エンマは気管支炎のためハーグで死去した。遺体はデルフトに葬られている。」(日本語 Wikipedia)
★ エマの娘ウェルヘルミナは成人して 1890年にオランダ女王として即位、メクレンブルク(=シュヴェリーン)公ハインリヒを王配として迎えます。
★ ウィルヘルミナの一人娘のユリアナは、後継のオランダ女王として即位、ベルンハルト・ファン・リッペ=ビーステルフェルトを王配として迎えます。
★ ユリアナの娘のベアトりクスもオランダ女王として即位し、クラウス・フォン・アムスベルクを王配として迎えます。
ヒトラーのナチスドイツが 1940年にオランダに侵攻したことにより、ドイツ系の王配を迎えることはオランダ国民に議論を巻き起こしましたが、結果としては受け入れているとことがオランダの懐深さのように思います。
女王が3代(エマの摂政時代を含めると4代)続いたオランダ王家で、ベアトリクスには男子ウィレム=アレキサンダーが誕生し、男性のオランダ国王としては約 170年ぶりに即位、アルゼンチン系のマクシマを王妃として迎えています。その夫婦は3人の娘を設け、長女のカタリナ=アマリア・ファン・オラニエ=ナッサウが次の王位法定相続人として定められています。
私が泊ったホテルの名前が Zum Holländer Hof、シュヴェリーンで泊ったホテルが Hotel Niederländischer Hofというのは、こういうオランダとの縁によるものです。
こちらの記事「誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(35):★シュヴェリーン Schwerin -3-」も是非ご参照ください。
★★★バート・アーロルゼン Bad Arolsen -8- に続きます