誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(41):★★★ビュッケブルク Bückeburg -1-

ニーダーザクセン州(Niedersachsen)のビュッケブルクBückeburg)をご紹介します。前回ご紹介したデトモルトの北北東約 40kmのところにある人口 2万人足らずの小さな町です(ちなみにデトモルトの人口は 7.4万人)。ここをデトモルトの次に採りあげるのは、そこに居を構えたリッペ侯国の分家に当たる「シャウムブルク=リッペ侯国 Shaumburg-Lippe」の居城がある町だからということです。

非知名度は少なくとも、多数の日本人の音楽家が学んだ音楽大学のあるデトモルトより上と思われるので★★★としておきます。下の地図はデトモルトからビュッケブルクに自転車で行く場合のルートで、途中にもレムゴー(Lemgo)リンテルン(Rinteln)などの素敵な町がありますが、これらもやはり★★★ランクでしょう(笑)

この一帯で「非知名度の低い町」といえば、ビュッケブルクから東南方向に 25kmほど離れたところにあるハーメルン Hameln(笛吹男の物語で知られる)でしょうね。またビーレフェルトの西南西 10kmくらいのところにある Steinhagenは「シュタインヘーガー Steinhäger」というスピリッツで知られています。↓↓地図はクリックすると拡大します。

Wappen Lage Data

↓↓ 町の概要は日本語Wikipediaから引用しておきます。

ビュッケブルク (Bückeburg) は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州シャウムブルク郡に属す市である。1918年までシャウムブルク=リッペ侯国(伯領、侯領)の宮廷が置かれ、1946年まではヴァイマル共和政下のシャウムブルク=リッペ州の首都であった。この街はハノーファーの西約 50 km の緩やかなハルル丘陵に面しており、西はノルトライン=ヴェストファーレン州と境を接している。また、ニーダーザクセン州の州憲法裁判所の所在地である。

シャウムブルク=リッペ侯国Schaumburg-Lippe)は、ドイツ中部にかつて存在した侯国Fürstentum)。現在のニーダーザクセン州の一部であり、ミンデンの北東、ハノーファーの南西に位置した。首都のビュッケブルクの人口は1787年で224戸(市域が7倍に拡張された1974年に1,300人、1980年代半ばで20,000人)。面積は19世紀半ばで約340平方km。

実は私がこの町のことが気になっていたのは、リッペ=デトモルト侯国の分家だからという訳ではありません。それを知るずっと前に、国家社会主義の資料を読んでいた時に目にしたこんな画像が強く印象に残り、その舞台がビュッケブルクというキャプションがあったからなのです。

Das Reichserntedankfest auf dem Bückeberg bei Hameln : Von Autor unbekannt – https://digi.ub.uni-heidelberg.de/diglit/adn_h36/0025, CC BY-SA 4.0, ソースはこちら

ナチスによる大規模集会はニュルンベルクの党大会が有名で、開催された施設は今も残っていますが、それと並行して Reichserntedankfest(帝国収穫感謝祭)と称するこんな大規模集会も開催していたのです。

ニュルンベルクの党大会開催地の跡地には(一部が Messe会場となっているので、仕事のついでに)何度か行ってみましたが、この写真を見た時「いつかこの跡地にも行ってみなければ・・・」と思っていたのが 2019年 11月に漸く実現します。しか~し・・・なんと私の重大な勘違いで、帝国収穫感謝祭の開催跡地は Bückeberg bei Hameln、この町はBückeburgだったのです(笑)この町も Hamelnからそう遠くはないので・・・というのも勘違いの原因のひとつですが、通常 bei XXXXというと「ちょっとした郊外」程度の距離感で、25kmも離れると bei XXXXってことはないですね。しまった!(笑)

Von Presse03, CC BY-SA 3.0, ソースはこちら

独語Wikipediaには「帝国宣伝省は建築家アルベルト・シュペーアに会場の設計を依頼した。彼は「広い田舎でこれまで想像もできなかったような規模の農民のフォークフェスティバル」の会場を設計することになっていた。ハーメルンのほか、ホヤ(Hoya)とビュッケブルグ(Bückeburg}の町周辺が将来のフェスティバル会場の候補地として選択可能であった。帝国宣伝省の委員会は、ハーメルンを支持することを決定し、これを「ドイツ独自の土壌」、「ゲルマン人の心の故郷」としてイデオロギー的に正当化した。その理由は、鉄道の便が良いこと、丘陵地にあり劇場的な性格を持っていることなど、より現実的なものであった。しかも、敷地は国有地であった。」とあります。一応、ビュッケブルクも候補地には入っていたんですね・・・と負け惜しみ(笑)また、その勘違いが元で私が訪問することになった・・・という意味では「怪我の功名」とでも言いましょうか・・・いや、言わないな(笑)

Das Reichserntedankfestgelände:Von Axel Hindemith – Eigenes Werk, CC0, ソースはこちら

ちなみにビュッケブルクの収穫祭(Erntefest)はこんな平和な秋祭りです(ソースはこちら

★★★ビュッケブルク Bückeburg -2- に続きます

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