誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(35):★シュヴェリーン Schwerin -13-

★シュヴェリーン Schwerin -12- からの続きです

最後にこれまで紹介できなかった写真・情報・動画などを纏めてシュヴェリーンの章を締めくくります。

↑↑ お城(宮殿)のある島から町の方角を眺めると劇場(Mecklenburgisches Staatstheater Schwerin)と博物館(Staatliches Museum Schwerin)が見えます。
↓↓ 近くに寄ると関な感じです。

博物館の建物に関しては「新しい博物館の建物の最初の計画は、建築家のゲオルク・アドルフ・デムラー(1804-1886)によって作成された。しかし、パウル・フリードリヒ大公(1800-1842)が早くに亡くなったため、この計画は実現しなかった。このようにして、大公のコレクションのための独立した博物館の建物の計画は 40年間眠っていたが、スティアとシュトゥラーの弟子であり、デムラーのアシスタントを長年務めたメクレンブルクの建築官ヘルマン・ヴィレブラント(1816-1899)が、旧庭園に博物館の建物を建設するための新しいスケッチを提出した。ウィレブラントのプランニングは、主に博物館に関連した、つまり博物館の機能的な要件に集中していた。火災や盗難に対する安全性、暖房、換気、そして何よりも状況や展示物に適した照明が考慮されている。このようにしてウィレブランドは新境地を開拓し、形を機能に従属させる時代の幕開けとなった。

ヴィレブランドは、1877年から1882年5月26日の引き渡しまでの間、アートコレクションの芸術監督エドゥアルド・プロシュ(1804-1878)の協力を得て、代表的な建物を「ギリシャ・ルネッサンス」様式で建設した。 イオニア式円柱を用いた印象的な入口ポータルと大階段を用いた歴史主義的建築様式は、この時代の典型的なものである。旧庭園の大公美術コレクションの初代館長はフリードリッヒ・シュリー(1839-1902)である。また、キューピッドとプシュケの結婚を描いたペディメントのフリーズは、彫刻家アルベルト・ヴォルフの手によるものですある。 この建物は当初、個人の博物館として設計されたが、大公フリードリヒ・フランツ 2世の時代には、展示施設というよりは科学的な目的で使用されていた。」という解説があります(独語 Wikipedia)

Mecklenburgisches Staatstheater Schwerin 劇場は1990年 5月にはまだ白く塗装されていました

↑↑シュロス通りからお城(州議会)はこんな風に見えますが、右手の白い建物は州の首相官邸です。↓↓

↓↓ 2018年 5月時点での州の首相は「女性」なんですね。ドイツ語初心者の方、プレートを見てお分かりですか?

↓↓ Pfaffenteich プファッフェンタイヒ

↓↓ シェヴェリーン中央駅

↓↓ 最後に動画をひとつ。YouTubeで「Schwerin」と検索すると、綺麗にリノベーションされた現在の町の様子を映した動画は沢山出てきます。そんな中にあって 1990年 4月に撮影された貴重な動画があります。私が初めて訪問した頃(私は 5月)の町の様子です。

動画の出発点は、この Pfaffenteichと、その向こうに見える白く塗られた Arsenalです

★シュヴェリーン Schwerin の章を終わります

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