- 2022-12-27
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駅を降りると大抵は旧市街(Aktstadt)を目指して歩き始めます。グライツは駅から上の城が見えるので尚更でした。で、行ってみると殆ど人が見当たらない、ドライフラワーのような街(笑) 今回、うっかり見逃してしまったのですが、新市街(Neustadt)と呼ばれる地域・・・19世後半のドイツ帝国が樹立されて以降に工業化の進展とともに発展した区域の方が賑わっていたのかも知れません。そこを調べておきます。下の地図では鉄道や 92号線の道路と、白エルスター川に挟まれた長円形の地区です。そこを縦に通っているメインの道路には「カロリーネン通り:と、あの悲しい運命の侯女の名前が付けられています。
19世紀のグライツ
グライツは、テューリンゲンのフォクトランドに位置し、かつては兄系ロイス公国の居城と首都であった。白エルスター川のほとりに位置し、3つの城で飾られた魅力的なこの町は、「フォクトラントの真珠」と呼ばれた。19世紀、グライツは重要な貿易ルートから遠く離れた、取るに足らない侯爵の居城から、全国的に重要な工業地帯へと発展した。
工業化の進展、人口の都市化、ドイツ建国後の統一経済圏の形成により、この町とフォクトランド地方は急速に経済成長を遂げ、ドイツで最も重要な工業地帯のひとつとなったのである。また、経済的に発展しつつあるザクセン王国との国境に位置するという地理的条件も決定的であった。ザクセンの大好況は、グライツや西部のフォクトランドにも波及し、特に繊維産業が盛んになった。この繊維産業の起源は近世にさかのぼるが、機械生産への移行が完了したのは 19世紀である。特に普仏戦争でのドイツの勝利と、その後の 1871年のドイツ帝国建国を中心とした、いわゆる「グリュンダーツァイト」の時代には、経済が活況を呈していた。多くの会社が設立され、活発な建築活動が行われた結果、立派な工業会社が誕生した。グライツの上流階級とその工場経営者たちは、想像を絶する繁栄を遂げた。
グライツの町は、近隣のゲラとともにドイツの繊維産業の拠点として発展し、カシミアやメリノを使った梳毛製品では、ほとんど世界的な地位を獲得した。 1900年頃、グライツにはすでに 60の工場があり、9000人の従業員が働いていた。グライツの工場経営者の中には 11人の大富豪が名を連ねていた。(大野註:こういう背景もあって、兄系ロイス家は最後に 1918年に弟系ロイス家に吸収されるまで、国としては無借金でした)
19世紀半ばからエルスター川の左岸の草原に計画されたグライツ新市街では、全く新しい地区が誕生した。鉄道の駅と周辺にあるいくつかの工場のほかは、グリュンダーツァイトの歴史主義様式の堂々とした住宅や商業施設で構成されており、現在もなお、その数は多い。とりわけ、工場経営者や商人などの富裕層は、この地に代表的な都市型別荘を建設した。 これらによって、ドイツ帝国の階級社会における経済的・社会的地位の向上を示し、社会的・建築的に貴族に追いつこうとしたのである。これらのヴィルヘルミアン様式の別荘は、それ以前の美術様式に倣った歴史主義の様式で建てられ、その代表的な豪華さは、工場主や商人の自然な習俗の一部であった。グライツ新市街は 1902年と 1908年の最後の大火を免れたため、今日も豊富に建物が保存されている。第二次世界大戦やドイツ民主共和国時代の大混乱の中でも、ほとんど無傷であった。そのため、今日、ウィルヘルミン・クォーターは、例外を除いて、当時の構造状態を反映していると言える。(こちらから引用)」
こちらに「Neustadtperle(新市街の真珠)」と呼ばれる建物の画像があります。