- 2021-5-7
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ハルバーシュタット Halberstadt -6- からの続きです
日本あるいは日本人は、歴史的にユダヤ人との接点や宗教上のコンフリクトは実質的に皆無だったので、世界の歴史・政治・文化のなかでのユダヤとも距離感を意識したことは無かったのだろうと思います。が、欧米で生活すると、それはどこかに顔を出し避けては通れないものであり、その一方で、また個人的な関係の中で深入りし過ぎるのもなにやら躊躇われるものがあります。
今回、ハルバーシュタットという、日本人が少なくとも観光視点ではほぼ興味を持たないだろう小さな町の歴史を調べ、そこで Issachar Berend Lehmannなるユダヤ人の生涯の物語に出会ったことで、欧州史を見る目が少し変わったように感じます。今回は、その Issachar Berend Lehmann(以下「ベレント・レーマン」)に関する独語 Wikipediaを、少し深掘りしようと思います。
その前に、まず彼が仕えたザクセン選帝侯の「アウグスト強王(強健王) August der Starke」の独語 Wikipediaから記述を辿ってみます。
Gemeinfrei, Link
ザクセン選帝侯領(日本語・独語)の歴史については別のところで纏めようと思いますが、「1485年にヴェッティン家の兄のエルンストと弟のアルベルトが領土を分割(ライプツィヒの分割)する」、「両方ともルター派」、「選帝侯エルンスト系(兄系)は 1546年のシュマルカルデン戦争を主導して皇帝カール5世と戦って敗れる」、「選帝侯のポジションを剝奪され、選帝侯はアルベルト系に移る」・・・なんて流れがあるのですが、アウグスト強王は、そのアルベルト家系で 1670年生まれ、兄の病死によって 1694年に「棚ぼた的に」ザクセン選帝侯となります。
「強王 der Starke」というニックネームから、卓越した軍事的な才能があったり、数々の戦いで連戦連勝したり・・・という印象を持ってしまいますが、実態としては強かったのは「握力」と「下半身」のようで(笑)・・・馬の蹄鉄をへし折ったり、365人から 382人ほどの子供の父親だったりしたことなどから来ているようです。また「強王」という表現からはちょっと意外ですが、文化や芸術の振興に力を入れ、第二次大戦の大爆撃で破壊されることになるドレスデンの王宮・劇場・教会等を建設したり、マイセン陶磁器を発展させたのも彼の時代です。
さて、アウグストはザクセン選帝侯でありながら、隣国ポーランド・リトアニア共和国の王位も獲得するべく、その国王選挙に出ます。これも現在の国家観ではかなり理解が難しいのですが、当時のポーランド・リトアニア共和国の王位は自由選挙で選ばれることになっており、外国人にも被選挙権がありました・・・なんじゃ、そりゃ(笑)私なりに腑に落ちていないのは・・・「1.共和国に国王?王室が無いのが共和国では?ここの国王はアメリカ大統領みたいなものなのか?」・「2.外国人にも被選挙権?アメリカ大統領選に日本人や中国人も立候補できる?」・「3.そもそも国王を選挙で選ぶ?国王って王家の世襲ではないのか?まあ、神聖ローマ帝国皇帝も『選帝侯』による選挙でという体裁だけど、そんなものが機能するのか?どういう発想じゃ?」・・・今の感覚ではちょっと理解しがたいものがあります。まあ、それを腑に落とすことがヨーロッパを理解するということなのでしょう。
まあ、それはさておき、「1696年 6月 17日、ポーランド王であり、リトアニアの大公であったヨハン 3世ソビエスキーが亡くなった。ポーランドの選帝侯制では、外国人もポーランドの王冠を争うことができた。アウグストは、ポーランド王家の尊厳を手に入れることで、政治的な主権を握ることができる地位の向上を目指していた。特に和平条約では、王冠をかぶった首領は身分の低い王子よりも優先された。 したがって、ポーランドの王冠は、ザクセンの選帝侯にとって単なる威信の対象ではなく、政治的に非常に価値のあるものだったのである。17世紀末の神聖ローマ帝国では、階級の昇格は当時の典型的な現象であった。」との記述があります。
パブリック・ドメイン, リンクによる
国王選挙はワルシャワ郊外のヴィエルカ・ヴォーラ(現在の市域の西部、ヴォーラ)で開かれた。
「ヴォーラにおけるアウグスト2世の国王選出」:ジャン=ピエール・ノルブラン・ド・ラ・グルデーヌ画
アメリカ大統領選の被選挙権は「アメリカの領土で生まれたこと」が必須ですが、ポーランド・リトアニア共和国の場合は「カトリックを信仰していること」が必須でした。神聖ローマ皇帝はカトリックの世俗的な守護役というポジションだったのに対して、カトリックの腐敗を指摘したルター以来の宗教改革勢力であったザクセンにあって、アウグストは、なんとこの選挙のためにカトリックに改宗してしまいます・・・なんじゃ、この節操の無さ!(笑)巨人の独り勝ちの対抗勢力のシンボルとしての阪神ファンの私が、関連会社の社長になりたくて巨人ファンに改宗する?考えられない(笑)
ま、このあたりの話は所詮は実感としては理解不能なので、事実として受け入れるとして・・・自由選挙王制とかいいながら、実態は選挙権を有するポーランド貴族達への賄賂が決め手だったようで、この賄賂資金を調達するのに活躍したのがハルバーシュタットのユダヤ人銀行家・実業家の「ベレント・レーマン」だったというワケなのです。
「アウグストのポーランド貴族による選挙には 3,900万ライヒスターラーの費用がかかったと言われているが、その大部分はユダヤ人の宮廷銀行家ベレンド・レーマンが調達したものであった。この金額はザクセン人への課税によって回収された。短期的にお金を手に入れるために、そこにいたアスカニア人の公爵家が消滅したために、実際にはヴェッティン家の選帝侯になるはずだったが、ゲルフ人やデーン人も主張していたザクセン=ラウエンブルク公国の権利を、すでに占領していたブランズウィック=リューネブルク公に売ってしまったこともあった。」・・・とのことです。
■ 註:3,900万ライヒスターラー:現在の貨幣価値にしてどのくらい?独語 Wikipediaによると「1ライヒスターラー銀貨には約 25gの銀貨が含まれている」x「本日時点の銀地金価格は約 105円/g(田中貴金属)」x「3,900万ライヒスターラー」≒ 100億円となります。
こういう「宮廷の為の資金調達」などを請け負ったユダヤ人のことを「宮廷ユダヤ人 Hofjude(Hoffaktor) 」と呼びますが、ベレント・レーマン以外にも有名な Hofjudeは何人もいます。独語 Wikipediaの「宮廷ユダヤ人」の項にありますが、「宮廷ユダヤ人はその地域のユダヤ人社会の中では突出した存在であり、ユダヤ人社会を保護する事ができた。彼らはユダヤ人たちの中にも影響を与えるようになる。上流階級との接点がある唯一のユダヤ人であるため、他のユダヤ人のために、その地域の支配者への陳情を行ったりもした。」・・・ということで、ハルバーシュタットのユダヤ人コミュニティを発展させ庇護したベレント・レーマンは典型的な Hofjudeということだったのでしょう。
またヨーロッパに於ける「ユダヤ人迫害」に関しては、生存者の証言・絶滅収容所跡や迫害を記録した映像や書籍などが現存する為「ナチスによるホロコースト」が過大に注目されがちですが、歴史的にはある意味で「定期的に」同様の迫害や追放が行われてきました。Bad Langensalzaの項目で、そのあたりに少し触れましたが、それなどは氷山の一角です。ただ、ユダヤ人ネットワークの有用性も理解されており、迫害や追放の後には、再び定住許可や懐柔が行われるというようなサイクルを繰り返してきたのです。
アウグスト強王の項には「また、1430年に追放されて以来、初めてユダヤ人のザクセンへの定住を認めたのはアウグスト強王であり」という記述があり「1696年にハルバーシュタットからドレスデンに連れてきた宮廷ユダヤ人のイサハル・ベレンド・レーマンは、その後ユダヤ人社会が発展していく中で大きな役割を果たしました。」とあります。ポーランド王のタイトル欲しさにプロテスタントの庇護者がカトリックに改宗したり、400人近い子供の父親だったという「無節操オヤジ」的な側面はありますが。ユダヤ人へのスタンスについては、中国の鄧小平のように「黒い猫でも、白い猫でも、ネズミを獲るのはいい猫だ」的な発想で、キリスト教徒であれ、ユダヤ教徒であれ「財政をちゃんと切り盛りしてくれるのは『いい猫』だ」・・・そんなノリだったのでしょうかね・・・
一方、独語 Wikipediaの中のベレント・レーマンの生涯の中にはこういう記述もあります。「彼の居住地はハルバーシュタットで、1688年のユダヤ人リストには、シュッツユーデン(Schutzjuden)のジョエル・アレクサンダーの娘ミリアムと結婚していることが記載されている。彼は、Vergleitung(法的に確保された寛容)を Schutzbriefから導き出した。その 2年後には、長男のレーマン・ベーレンが誕生している。彼はハルバーシュタットのユダヤ人街に質素な家を建てた(Bakenstraße 37、今でも小ヴェネツィアの一部として保存されている)。彼は君主であるブランデンブルク選帝侯フリードリヒ 3世の許可を得て、ユダヤ人としては例外的にハルバーシュタットに代表的な 2軒目の家(Bakenstraße 28)を購入した。彼は、裏の家を取り壊して、将来トーラ・タルムードを教える家(イェシバ)のために新しい建物を建てたが、これはおそらく、将来のシナゴーグを備えたコミュニティ・センターの出発点となることを意図していたのだろう。しかし、彼は建築を続けることを禁じられた。しかも、隣の 2つの不動産を購入する前に、新たに入国したフランス改革派の難民(ユグノー)のために、不動産が没収されてしまったのだ。彼の後援者であるアウグスト強王の介入は失敗に終わった。」
ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ 3世
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ここから分かることは「1.ハルバーシュタットはブランデンブルク選帝侯領(プロイセン)の町であったこと」・「2.Hofjudeとしてザクセン選帝侯とビジネス関係にあったが、ブランデンブルク選帝侯とはそういう関係ではなかったこと」・「ユダヤ人は自由に家を購入できたわけではなく、君主選帝侯の許可を必要としたこと」・「キリスト教プロテスタントの一派ユグノーの入植の方が優先され、ユダヤ人のレーマンの不動産は没収されてしまうこと」・・・などです。迫害・追放が解かれ、定住や事業を許された場合でも、市民権・私権の制約はあったことが推察されます。
これ以上深入りするとキリが無くなるので今回はこの辺にしますが、上に出てくる「Schutzjude(n)」を独語 Wikipediaで調べると結構大変なことが書かれています。日本語は無いので Google翻訳か DeepL翻訳でチェック大意を把握してみてください。
ポイントは「中世や近世初期に於いては、ユダヤ人を支配する権利は王室のものであった。ディアスポラの運命における神学的に正当化された奴隷制に続いて、ユダヤ人のディアスポラはこれを、最初は神聖ローマ帝国の奴隷制の形で、領主と財産法の文脈に置いた。 1356年の金印勅書により、ユダヤ人を保護する権利が選帝侯に、そして続いて領邦国家の主権者に委譲された。他の経済的に使用可能な主権(レガリア)に加えて、ユダヤ人に対する支配権は統治者の世帯の資金調達にも貢献した。その基本は、ユダヤ人が根本的に劣っていて保護を必要としていると分類した、期限付きの神学的思想によって形成された。教会法と世俗法にはそれぞれ独自の保護権が含まれており、教皇と帝国の中世の力の主張が根付いていた。・・・(中略)・・・19世紀初頭の農奴解放令と農奴制の廃止により、ユダヤ人は平等な権利を持つ市民になった。」・・・ということです。一言でいえば「ユダヤ人は奴隷であり、各地域の領主たちは合法的にそれを支配する権利を持っていた」ということになります。
また、腐敗したカトリックに対してノーを突き付けた「宗教改革のヒーロー」のように理解されているあのマルティン・ルターでさえも、ユダヤ人に関しては「ユダヤ人と彼らの嘘について」という著書の中で「シナゴーグや学校(イェシバ)の永久破壊・ユダヤ人の家を打ち壊し、ジプシーのようにバラックか馬小屋のようなところへの集団移住・ユダヤ教の書物の没収・ラビの伝道の禁止・ユダヤ人護送の保護の取消・高利貸し業の禁止・金銀の没収・若いユダヤ人男女に斧、つるはし、押し車を与え、額に汗して働かせること。」を主張しています。これってナチスが実際にやったことと同じですが、ナチスが台頭する時期の遥か 400年も前に、あのルターでさえこういう思想だったのです。
ヨーロッパ・キリスト教世界ではカトリックやプロテスタントに依らず、ユダヤ人(ユダヤ教徒)はそもそも劣等民族であると神学的に理論化・体系化され、そういう扱いを受けてきたということであり、今日我々が日常触れる「(普遍的)人権」という概念はほんの最近生まれたものということなのでしょう。
さて、ベレント・レーマンの時代には活況を呈していたであろうかつてのユダヤ人街は、シナゴーグはナチスによって破壊され、ベレント・レーマンの宮殿に例えられた邸宅も破壊され、ユダヤ人コミュニティの住民達は収容所に送られてほぼ絶滅させられ、残った建物は爆撃を受け、それを生き延びた建物は旧東独自体の経済的貧困から放置されて廃墟化・崩壊・撤去されてしまいました。そこを何とか生き延びた建物は、東西統一後に補修されて見栄えはそこそこ綺麗になっています。しかし・・・私がここを訪問した 2018年 4月 22日の夕刻 17:00頃は、日曜日だったことを割り引いても人影は殆ど無く、活気や生活感が無い一角となってしまっていました。。
大変残念なことですが、次回訪問時には「ベレンド・レーマン博物館」や「モーゼス・メンデルスゾーン・アカデミー」を訪問し、併設されているユダヤ風の料理を提供する「Cafe Hirsch」でフムスを味わってみたいと思っています。
↓↓ 最後に Halberstadtの戦後復興の推移の番組をアップしておきます
ハルバーシュタット Halberstadt の項を終わります
シリーズ:誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte に戻ります。