- 2021-5-1
- ブログ
ハルバーシュタット Halberstadt -4- からの続きです
旧市街の西の一角にファッハベルクハウスが綺麗に修復されて残っている一角があります。ここにはかつて、フランクフルト・アム・マインと並んで、中部ドイツで最も重要なユダヤ人コミュニティが有ったのです。勿論、ナチズムがドイツを支配した時代にコミュニティは絶滅させられ、かつては有ったであろう活気は殆ど感じることはできませんが、いくつか当時を偲ぶ手がかりが残っています。
↑↑ Liebfrauenkirchから北を眺めるとその向こうは少し低くなっているので Unterstadtと呼ばれているものと想像します。↓↓ 下の航空写真では右下の縁に写っている駐車場が、上の写真のそれと同じ場所です。航空写真ではその向こうに、家屋群で円形に囲まれた一角が確認できますが、このあたりがかつてのユダヤ人街の中心だったようです。真ん中に「ユーデン通り」という道が見えますが、その周辺に有ったであろう家屋群が見当たらないのは、戦災で破壊されたというより、旧東独時代の荒廃で廃墟化・撤去されたもとの想像できます。(こういう現象に関してはノルトハウゼンの項で書きました。)
↑↑ 上の写真はクリックすると拡大しますが、「ユーデン通り」がY字に分かれた左側に「Berend Lehmann Museum…」という文字が見え、Museumの下あたりに中央に円形が見えるスペースがあります。ここはかつてバロック様式のシナゴーグが有った場所です。
また、そこから西に「バーケン通り」を越えて「ローゼンウィンケル18番地」にあるクラウス・シナゴーグは、19世紀半ばに建てられました。クラウスと呼ばれる神学校のあるシナゴーグは、保護された文化遺産です。1700年頃に建てられた以前の建物は、19世紀半ばに老朽化のために取り壊されました。現存する建物は、ハルバーシュタットに住む企業家のヒルシュ(Hirsch)家が出資しました。
また「ユーデン通り」がY字に分かれたところに台形の土地と、その南の辺に「門の影」が写っているのが確認できるかと思います。市の公式サイトに「ユーデン通り」関して下記の解説があります。
「旧市街の特徴的な部分は、1980年代初頭から取り壊されてきましたが、荒廃している。狭い路地は、バーケンストリートへの通路に向かってまだ認識できるが、グルーデンベルグ方面には、かつて密集していたが今な何もない広い空間が広がっている。
緑に塗り替えられた防火壁、瓦屋根、ファッハヴェルクの家々がそれを取り囲んでいる。あちこちに停まっている車の間には、1999年から囲いのある広場とベンチ、石の門が設置されている。
18世紀のハルバーシュタットの傑出した人物の一人であるベレンド・レーマン(Berend Lehmann)家の後期バロック様式の邸宅があった場所を囲んでいる。レーマンは銀行家であり、ザクセンの王侯貴族に仕えていた。レーマンは、その大きな影響力と富によって、ハルバーシュタットのユダヤ人コミュニティの生活に重要な刺激を与えた。バーケンストリート周辺は、ハルバーシュタットのユダヤ人生活の中心地だった。1712年には、ユーデン通りとバーケン通りの間の中庭に壮大な新しいシナゴーグが建設されたが、その資金は主にベーレン・レーマンが負担した。ドイツの多くのシナゴーグと同様に、1938年の 11月のポグロムで破壊された。(■ 訳註:正確には Baupolizeiによってユダヤ人コミュニティに対して自ら解体するように命令が出され、破壊の費用はコミュニティの負担とされた、)
ユダヤ人の慈善家レーマンのバロック様式の住宅は荒廃し、最終的には経済的な理由で、近隣のファッハヴェルクの家と同様に、文化財保護リストから削除され、取り壊された。1999年に行われた敷地の設計では、元の建物の石を使用し、少なくともかつての存在とその歴史を思い起こさせることを意図している。
私たちが立っているのは、旧市街の断片であることがはっきりとわかる。邸宅の入口ポータルの後ろには、ペータースホフが城のようにそびえ立っている。しかし、アプトホフとは異なり、ここでの空虚さは不毛で実体のないものではなく、私たちを長居させ、今はないものの跡を辿るように誘う。この新しい空間をさらに充実させるためにどのような手段があるのか、IBAを超えて街の人々を悩ませることになるだろう。建物の開発やその他のデザインの介入によって、この場所を修復できるかどうか、また、近隣のシナゴーグのメモリアルサイトに言及できるかどうかを検討する必要があるだろう。」
独語Wikipediaにもあまり纏まった記述はないのですが、Klaus-Dieter Alickeという人の個人サイト「ドイツ語圏に於けるユダヤ人コミュニティの歴史から Aus der Geschichte der jüdischen Gemeinden im deutschen Sprachraum」に、ハルバーシュタットのユダヤ人コミュニティの歴史がかなり詳しく書かれています。
それによると「18世紀前半、ハルバーシュタットのユダヤ人社会は、中央ヨーロッパで最も大きく、重要なものの一つでした。ハルバーシュタットは、フランクフルト・M.と並んで、20世紀までドイツにおけるユダヤ正教の中心地とされていた。」とあります。
大都市のフランクフルトならわかるような気もしますが、今日では人口4万人程度でさほどの活気もなく、かつナチスによって絶滅させられて僅かにその痕跡を残す程度のハルバーシュタットに、そんな重要なユダヤ人コミュニティが有ったなんて・・・この町を訪問した 2018年 4月時点は全く知らなかったし、たまたま昨日上記のサイトを見つけて深掘りするまでは全く気にもしていなかったのです。
ところが、上記のサイトとその関連のサイトを読み耽り、またベレント・レーマン(Berend Lehmann)のことを調べていくうちに目からウロコが数枚落ちるような想いです。ちょっと変則ですが、独語Wikipediaの「ベレント・レーマン(Berend Lehmann)」に関する記述と、前述の Aus der Geschichte der jüdischen Gemeinden im deutschen Sprachraumの抄訳を試みようと思います。(後者に関しては現在、Klaus-Dieter Alicke氏に翻訳・公開許可を打診中)
ハルバーシュタット Halberstadt -6- に続きます