誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(18):★★★ヒルトブルクハウゼン Hildburghausen -2-

★★★ヒルトブルクハウゼン -1- からの続きです

私が何故この小さな町に行ってみたかったのか?・・・それはベルリンの壁が崩壊し、西ドイツに吸収合併される形で統一・消滅した旧東独が、まだ「ドイツ民主共和国」として存在していた時期に、本多勝一というジャーナリストが日本人としてそこに2か月にわたって滞在し書いた現地ルポを読んで大いに興味を持ったのですが、その舞台がこのヒルドブルクハウゼンだったという訳なのです。

本多勝一というジャーナリストの名前は、私の年代ならどこかで聞いたことがあるとは思いますが、1932年生まれとのことなので現在は 89歳、最近は流石にあまりにアクティブに活動はされていないようなのでご存知ない方も多いかと思います。

上のリンクにもありますが「京都大学卒、1959年、朝日新聞社に入社。同年の朝日新聞社の入社試験は英語と論文と面接だけで一般常識などの筆記試験がなく「常識」なしの昭和34年組と社内で皮肉られたという。1968年から同社編集委員。1991年に同社を定年退職。1994年5月、「週刊金曜日」編集長となる。」とのこと。

週刊金曜日のサイトはこちらで編集委員のページを見ると本多勝一氏がここではまだ現役ということが分かります(2021年 1月時点).また Wikipediaにも解説があります。

我々の世代では「進歩的知識人」というカテゴリーに分類され、毀誉褒貶相半ばする人物という側面はありますが、ここではそれには触れません。

むしろ、かつては左派として社会主義諸国には少なからずシンパシーを抱いていたであろう人が、その社会主義国家が消滅する直前に何を見たかというのも興味深いですし、そうでなくても壁が崩壊して僅か 11か月しか存在できず、日本人がビザなしで往来できたホンの数か月の間に、いち早く滞在ルポを書いたということには敬意を表さざるを得ません。

ネタバレになるので詳しくは書きませんが、ドイツ民主主義共和国をルポするにあたり、主要な町を転々としてスナップショットを撮るのではなく、ヒルドブルクハウゼンという小さな町に住みこんで、そこに住む人達にインタビューをし、イベントに参加して深掘りをして、そこから「ドイツ民主主義共和国の正体」に迫っていくという手法をとっています。Amazonにある書評では(ある意味、当然ながら)「捏造の代名詞になっているくらいですから何を読んでも胡散臭く感じるというのが正直なところ・・・」とか「(いつもの著者の鋭さ、権力者や体制の錯誤を指摘する時の鋭さがやや足りないように感じられた。)・・・筋金入りのリベラリストとして知られた著者だけに、心のどこかに「社会主義の優等生」が資本主義国家に吸収されていくのを惜しむ気持ちがあったのだろう。」などと書かれています。まあ、それはそれとして、もし手に入るものなら、先入観無しに読んでみられることをお勧めします。

さて、この現地ルポの後半に、永井清彦という人が「ドイツ民主主義共和国と称した国」という一章を書いています。主観的なルポとバランスをとるようにニュートラル(?)な視点からのコンパクトな 28ページほどの小史です。この永井清彦という方は 1935年生まれで本多勝一氏の 3歳年下、東大文学部独文科卒で朝日新聞社での後輩だった方です。ジャーナリストとして勤めた後、いくつかの大学で教鞭をとられたのですが、最後に在籍された共立女子大学時代に、お住まいが八王子だった関係で私との付き合いが始まりました。


←永井さんの代表的著作のひとつ ↑↑これを翻訳されたのも永井さんです。

更に話は続きます。この「されどわれらが日々」というのは柴田翔という作家による芥川賞を受賞した小説ですが、「1964年に文芸春秋新社より 258ページに渡る作品として出版された。1964年上半期の第 51回芥川龍之介賞を受賞した。1962年のドイツ留学前に著者の柴田翔が完成させ、その後 186万部のベストセラーとなり、1960年から1970年代にかけての若者のバイブルとなっている。」と Wikipediaにあるように、1972年に大学に入学した私の世代にとっても、今も「胸キュン」ものの小説です。

少しだけ脱線をすれば「僕って何?」(1977年、三田誠広:三田工業創業者の三田順慶氏の子息、1977年芥川賞受賞)・「もう頬杖はつかない」(1978年、身延典子)・「優しいサヨクのための嬉遊曲」(1983年、島田雅彦)なんていうのもツボなんですけどね(笑)

そしてこの著者の柴田翔は東大文学部独文科で、永井清彦さんの同級(柴田氏の方が生まれ年は一学年上)で、私が永井さんと知り合った当時は同じ八王子の共立女子大での同僚だったのです。思わずサインを貰いに行こうかとミーハーなことを考えてしまいましたが(笑)

永井さんとお話ししたのは 1992年から 1996年の間の 4年間で、東西の壁が崩壊・統合などを現場で体験してきた私の話を、かつての東西ドイツの問題に精通しされていた永井さんは大変興味をもって聴いてくれて、また貴重な情報も頂いたものです。かつてが国家保安省(Stasi)にマークされていたとのことで、ライプツィヒの Runden Eckeで入手した「Stasiに記録れた個人情報開示請求フォーム」を差し上げたら「これは凄い!自分のを請求してみるよ!」と喜んでおられました。

まあ、そういう、本多勝一氏のルポを起点として何重にも繋がりのあるヒルドブルクハウゼン(ルポでは「ヒーブー市」と略されている)には、一度は行ってみたかった・・・そういう背景です。実際に行きましたが、この後にまだ本命の目的地もあったので、マルクトに車を停めて、ラートハウスと、その近くの小さな博物館に立ち寄っただけで終わりました。いつか、何週間か住んで、昔話をインタビューする・・・そういうことはやってみたいなと思っています。多分、他の町で(笑)

★★★ヒルトブルクハウゼンの項を終わります
シリーズ:誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte に戻ります。

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