誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(18):★★★ヒルトブルクハウゼン Hildburghausen -1-

テューリンゲンのヒルドブルクハウゼン Hildburghausenをご紹介します。非知名度としては自信をもって★★★ですが(笑)、実は自分的にはずっと行ってみたかった町なのです。Wikipediaによると「ヒルドブルグハウゼンは、同名の郡(Landkreis)も含めた中心の町。1680年から 1826年まで存在していたザクセン・ヒルトブルクハウゼン公国のレジデンツ・シュタット(領主の居館があった町)で、フランケンの影響を受けたチューリンゲン南部に位置しています。」ということで、特段のアトラクション要素があるような記述は見当たりません。何故、私が「行ってみたかったのか?」・・・その種明かしは後半で書きます。

Hildburghausen Historisches Rathaus.jpgCC BY-SA 3.0, Link ラートハウス

Wappen Lage Data

独語 Wikipedia
市の公式サイト

日本語 Wikipediaによる解説によると「ザクセン=ヒルトブルクハウゼンドイツ語Sachsen-Hildburghausen)は、1680年から1826年まで存在した、ヴェッティン家エルネスティン系が統治した公国。領土は現ドイツテューリンゲン州の一部(現ヒルトブルクハウゼン郡英語版とほぼ同じ)にあたる。」とあります。ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公国の独語 Wikipediaによる解説はこちらです。

詳しくはこちらをクリック下さい。エルネスト系に有りがちな複雑な相続争いの歴史です(笑) 日本語 Wikipediaから

歴史

1675年3月26日にザクセン=ゴータエルンスト1世ゴータで死去すると、遺領は1680年2月24日に7人の息子の間で分割された。そのうち、ザクセン=ヒルトブルクハウゼンは六男のエルンスト2世英語版に与えられ、彼は初代ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公エルンストになった。しかし、新しく成立した公国は独立しておらず、その行政はエルンストの長兄でゴータに住むフリードリヒ1世英語版の命令に従わなければならなかった。ザクセン=ヒルトブルクハウゼンが名実ともに独立したのは1702年のことであった。

公国は成立した時点ではヒルトブルクハウゼン英語版ヘルトブルク英語版アイスフェルト英語版ファイルスドルフ英語版の各郡、そしてシャルカウ英語版郡の半分を領土とし、その後の1683年にケーニヒスベルク英語版を、1705年にゾンネフェルトを併合した[1]。1699年にザクセン=コーブルクアルベルト5世英語版が後継者のないまま死去すると、エルネスティン諸公の間で継承争いがおこったが、1714年にザクセン=ヒルトブルクハウゼンがシャルカウ郡を割譲する代わりにザクセンの一部(ザクセン=レムヒルトの一部、ワイナリーを含むベールンゲン英語版郡、修道院のあるミルツ英語版メスペルブルン出身のエヒター家の遺産)を得ることで決着した[1]

1684年、エルンストがヒルトブルクハウゼンを居城としたことでヒルトブルクハウゼンは発展を遂げたが、豪華な建築や庭園などが公国の財政を圧迫し、1769年には神聖ローマ帝国の負債委員会英語版による強制執行がなされるほどになった[1]。委員会の議長にはザクセン=マイニンゲンの財政を救った摂政シャルロッテ・アマーリエ・フォン・ヘッセン=フィリップスタール英語版が務めた。

1806年に神聖ローマ帝国が解体されると、ザクセン=ヒルトブルクハウゼンは公国として完全独立した。その数か月後の12月15日、ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公国はエルネスティン諸公国とともにライン同盟に参加、1815年には同じくドイツ連邦に参加した。1818年、ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公フリードリヒは憲法を制定した。

1825年にザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国の家系が断絶すると、エルネスティン諸公の間で継承争いが再燃した。1826年11月12日、ヴェッティン家家長であるザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世の調停により、エルネスティン諸公国は領土を再編した。ザクセン=ヒルトブルクハウゼンはケーニヒスベルクとゾンネフェルトをザクセン=コーブルク=ゴータに、残りの領土をザクセン=マイニンゲンに割譲したが、その代わりにザクセン=ヒルトブルクハウゼン公フリードリヒは新しく創設されたザクセン=アルテンブルク公国の公位を得た。

1868年、ザクセン=マイニンゲン公国に4郡が成立したが、その1つがヒルトブルクハウゼン郡であり、かつての公国の領土と似た大きさとなっている。ヒルトブルクハウゼン郡はその後ほとんど変更がなかったが、1993年にズール郡と合併した。


航空写真を見ると、旧市街の面積に比べやや不釣り合いな大きなシュロスパーク(Schlosspark)が見えます。ここにはザクセン=ヒルトブルクハウゼン公の居城(Schloss Hildburghausen)がありましたが、1945年に連合軍の砲撃で破壊され、1947~1950年にかけて撤去されました。

Schloss

独語 Wikipediaから:
ヴェルサイユ宮殿をモデルにした馬蹄形の3階建ての建物。バロック様式の複合施設は、直角に隣接した 2つの翼を持つ中央の本館と、大きな前庭であるコート・ドヌール(court d’honneur)を取り囲むように構成されていました。宮殿は 3つの大広間といくつかの謁見の間を備えており、壁や天井にはロココ様式の漆喰細工が施され、一部は塗装が施されていました。漆喰塗りの堅固な建物のファサードは、長方形の窓、シンプルな石の壁、建物の角にある素朴なアーティキュレーション、切妻屋根が特徴的でした。

中央の翼の中庭側は 2つの門で仕切られており、その両側にはドーリア様式の列柱があり、上部には三角形の切妻があり、彫刻が施されています。22の窓軸を持つ庭側は、切妻のない両サイドの柱で縁取られた 2つの窓軸が非対称にデザインされていました。

Rathaus

町役場の中心部には、13世紀に建てられ、1325年に初めて文書化された、いわゆる石造りの家の跡が残っています。封建的な東屋であったが、1388年に焼失し、その後、町役場の建設のために町に与えられた。1395年に着工し、1417年に完成したが、1572年に暴風雨で半壊した後、暫定的に再建された。1594年には、古い建物の外壁を利用して新しい建物が建てられました。

3階建ての漆喰の建物は、1595年にルネッサンス様式で現在の形になりました。建物は急勾配のサドル屋根。南側には3階建ての吹き抜けの切妻があります。西側には4階建ての丸い階段塔があり、二重に湾曲したドームの上には開放的なランタンがあります。稜線の砲塔には塔時計があり、フードとランタンが付いています。出入り口には、半円形のアーチにギルドの11の小さな紋章があり、つぼみの上には鉄のうねりがあり、中世の町の最も重要な貿易である織物産業を思い起こさせてくれます。上の窓の欄干には、町の紋章と1595年からのザクセンの大紋章が飾られています。

Hildburghausen-002.jpgCC BY-SA 3.0, Link

★★★ヒルトブルクハウゼン -2- に続きます

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